高等部 国語科より

平成18年度 

* 「セメント樽の中の手紙」を読んで *教師 *人種 *日本のギャル *宿題     
* 外国人労働者 *家庭での食事 *赤ちゃんポスト 
* 漫画   *夫婦別姓  *本当の美について

 

平成17年度 

 

平成16年度

 

平成15年度

 

平成14年度

平成18年度

 

ささいな幸せ

恋愛話に花を咲かせる。
友達を思いやり、大切にする。
家族を愛し、いたわり会う。

どんな文化を持っていても、
どんな国から来ていても、
この気持ちは変わらない。

当たり前の事だけれど、
このことに気付いた時は、
ささいな幸せを感じた。

きっと日本にずっといたら
気付かなかっただろう。
それを自然に気付かせてくれるアメリカ。
辛いことばかりじゃない。
たくさんのささいな幸せをみつけて、
もっと幸せな人間になりたい。

 

 


気持ち読解マシーン


相手と意見が合わなかったり、
相手の事を知りたかったりする時、
そんなものがあればいいなと思う。

人の気持ちが読解出来る機会。

そんな物があれば、
相手にどう思われているかなんて
悩んだりしなくていい。
そんな物があれば、
相手に思っていることが
分かってもらえる。

でもやっぱりいいや。
相手の気持ちをすべて知り、
受け入れるのは怖すぎるから。
こうやって相手の気持ちとか
自分の思いの伝え方を考えるのも、
かえって楽しい事なのかもしれないから。
 

 

 

虹が見えた  紅葉に埋まった通学路  

キャンプファイアーの炎  幼き日に見上げた向日葵  昨日食べた胡瓜  

頭上に広がる大空  冒険へと誘う大海原  夕焼けと曙 

みんな混じり合って  

あの階の先は  空の涯へと繋がっていると言うけれど  

その向こうには何が待っているのだろう

 

 

 

自分の気持ち

「さよなら」と友達に別れを告げた時
いつのまにか出てた
大粒の涙
この気持ちいつまでも

この気持ち忘れたくない
困った人を助け
晴れやかな笑顔をみたとき

この気持ち忘れたくない
うまくいかなくて、悔しかった気持ち
今度こそは絶対頑張ると
目標をもったとき

この気持ち忘れたくない
家族、友達と本音で話せるという
楽しさ、心地よさ

この気持ち忘れたくない
自分のことだけを考えて
周りのことを全く気にしていない人と話したときの
嫌悪感

この気持ち忘れたくない
絶対無理だと思っていた事を
あきらめずにベストを尽くした時の
達成感
たとえそれを達成できなかった時でも
チャレンジしたことにより
前より光がみえてきた
頑張った自分が誇りに思えた

この気持ち忘れたくない
この気持ち忘れたら
一体どうなってしまうのだろう
きっと今の自分じゃなくなり
ただの人間になっちゃうのだろうね

だから一つ一つの気持ちを
頭の宝箱の中にいれておこう
そしてこの気持ちをいつまでも
永遠に・・・・

 

 

 

前へ


悲しい時
辛い時
なきたい時
幸せな時
嬉しい時
大切な人といる時


あなたは時間を止めたいと思った事はありませんか


失敗した時
友達を傷つけてしまった時
嘘をついてしまった時

写真を整理している時
昔が恋しくなった時
あなたの大切な人が遠くに行ってしまった時


あなたは過去に戻りたいと思った事はありませんか


時計はカチカチと鳴り続ける
  鳴り続ける・・・・
  鳴り続ける・・・・


時計回りに動く針 
逆回転はできない


立ち止まってはいられない

一緒に行こう 新しい未来へ

一緒に行こう 人生の時計と



 


「月と太陽」


全ての人に二つの顔があるように、
全ての人には月と太陽のカケラがある。

あなたがいるから私は輝ける。
闇夜に浮かぶ月のように。

あなたという太陽の輝きがあるから
私は自分の道を照らし、歩むことができる。

私も誰かの太陽になれたら・・・
あなたが私のかけがえのない存在であるように、
私もいつか誰かのかけがえのない存在になりたい。

全ての人は月にも太陽にもなれる。
心の中に眠っているカケラを磨き、互いを照らす光となって。
 

 

 

戦争 
 
笑っている人が泣いてしまう 
美しい景色が焼けてしまう 
思い出までが焼けてしまう 
 
六十年 
何十年経っても 
人々の悲しみは癒えない 
悲しみを引きずりながら生きている 
忘れたくても忘れられない悲しみを 
 
家族を亡くせば奇妙な気持ちが 
からだの中で回りだす 
悲しみ、とも言えず 
衝撃、とも言えず 
憎しみ、とも言えない… 
 
僕たちは戦争を知らない 
本当の悲しみを味わったことがない 
けれども戦争がなくなってほしい 
 
誰もがそう思っている 
戦争をやめよう 
世界中の人がそう思えるように 
世界中の人のその願いを 

 

 

 

別れる友へ

別れる友へ、
いつまでも笑っていてくれ
どのような道を歩んでいても。
どれだけつらく、大変でも、
笑えば何でも越えられる。

別れる友へ、
いつまでも元気でいてくれ、
どのようなことをいわれても。
どんなにバカにされても、
元気でいれば何でも越えられる。

別れる友へ、
いつまでも忘れないでくれ、
たとえ私が死んでも。
思い出を忘れないかぎり、
私はそこで生きていられる。

いつまでもそばにいられる。

 

 

 

歩み

一歩一歩、進んでゆくたびに
少しずつ未来が見えてくる。
一歩一歩、進んでゆくたびに
一つずつ何かを学んでゆく。

一歩一歩、進んでゆくたびに
自分の運命が分かってくる。
一歩一歩、進んでゆくたびに
一つずつ何かを忘れてゆく。

一歩一歩、進んでゆくたびに
昔に戻りたくなっていくが
一歩一歩、進んでゆくたびに
少しずつ楽しみが見えてくる。

枝道へ来てしまった僕たちへ、
今こそが未来に進む時だ。
いろいろ迷いがある僕たちへ
一歩ずつ進めばきっと見つかるだろう。

笑いを忘れた僕たちへ、
希望をなくしがちの僕たちへ、
本当は恐がりな僕たちへ、
明日があるから大丈夫だ。
きっと楽しいことがある。

どんな嵐がふいても、
一歩ずつ、
一歩だけでも進んだら、
どんなに苦しいことでも
時間が治してくれるだろう。
 

 

いじめ

 

 

「いじめ」に関する所見 

 

古今東西、「いじめ」というものは、大なり小なり存在してきた。そして、それが絶対悪であるという定義も付随した上で。それでも、その「いじめ」が注目され大きく取り上げられるようになったのはつい最近のことのように思える。 

 

最近問題になっている点の一つに、傍観者に非がある、というものがある。しかしながら、「いじめ」の最大の傍観者は、本来ならその問題を解決すべき大人側なのではないだろうか。そして、本来その問題を全力で解決すべき大人の方にこそ、問題があるのではないだろうか。 大人達の仕事の一つに子供が安全に学べる場所を確保する、と言うものがある。確かに、学校を作るのは大人の仕事だ。だが、学校を無くすことも簡単に出来る。ディベートの中で、学校全体で「いじめ」問題に取り組んでいく、と言う意見があったが、現在大多数を占める教師一人に対する生徒数の多い学校では、難しいだろう。 そんな中で、過疎化の進む土地では、ある程度は仕方のないことなのかも知れないが、大都市であるとされる東京都内でさえ、生徒数の少ないもしくはあまり多くない学校は次々に吸収合併されている。例えそこにかなりの数の署名運動があろうとも、結局は政府の大人達の一存でそれは行われている。 

 

小学生当時の仲間達の中に、絶対に「いじめ」の標的になるだろう、と思われる子がいた。彼女は、学力も運動面も他の誰よりも劣っているのは一目瞭然でーーテストの点数は常に一桁、運動能力は万年学年最下位の私より幾らかはマシという程度ーーその上に自己中心的な振舞いの目立つ子だった。さて、私は諸事情によりその当時の子達とは違う中学校に進学していたのだが、暫くして当時の仲間達と再会し、話す機会が生まれた。その時に、その子の近況を聞いたら、何のことはない、全くの予想通りの展開だったのだ。要は、あまり芳しくない振舞いが目立つようになり、いじめられて学校に来ることができずに転校し、詳しい事情は大人達のみが知る、という。何もしてあげることができなかった、無力な自分がやるせなかった。 

 

こんなケースもあった。とある事情で私の友人がいじめられていたときだ。私は当時どのグループにも所属しておらず、だからこそ色々なところから噂や情報を入手できたし、相手にある程度の牽制をしていた。そして、そのいじめられていた子は、ある程度強く、自分で全て抱え込むような人間ではなかったので、大人に助けを求めるまでは早かった。私達の担任はそれを聞いて魔女狩りと呼ばれる告発を誘う話や「いじめ」は許されないと上面だけの話等をし、とりあえず対処はした、と呼べる程度のことをしただけだった。先生の介入により、その「いじめ」は一見沈静化したかのように見えた。しかし、実はそれは水面下で陰湿さを増して一層エスカレートしていったのだ。結局、それは私達の卒業により学校がバラバラになったことで初期化されたが、いつも大人が頼れるものであるとは限らないと感じた場面だった。 

 

また、本題からは少しずれるが、「いじめ」を防ぐべく、傍観者の立場になりがちな第三者が、自分もいじめられるかも知れない、と言う恐怖にうち勝ち、仮に救いの手を述べたとしよう。その時に、いじめられる側が相手のことを巻き込まないようにと考えて、その救いの手を拒絶する場合だって有り得るのだ。皮肉なことに、救いの手を述べた人物が、いじめられている子と親しければ親しいほどにその傾向が強まる。また、元々親しかったが故に、その後も親しくし続け、逆にいじめられてしまい、いじめられている子が、本当だったら私だけで済んだのに、私と仲良くするから、と辛い思いをする可能性だってあるのだ。 

 

以上の全ては、私自身の体験談であり、全て私の視点からの意見であるが故に、一般論で言えば間違っている点も多いかも知れない。しかし、私がこれから先大人になり、もしも「いじめ」の現場に立ち会うような時があれば、救いを求める手を掴んで奈落の底へ放り投げるようなことは絶対にしたくないし、しないだろうと思う。 

 

 

 



「いじめ対策について」


  現在日本で起きているいじめやそれを苦にして自殺する子供たちの増加などに対する対策は、学校で行われるべきだと最初思っていた。学校で奉仕活動を必須単位として取らせたり、教師一人一人がやるべきことをやるようにと方針を変えて見て見ぬふりの傍観者などのいない学校づくりに取り組めば、きっと何らかの結果が出せるだろうと思っていたからだ。


  が、ディベート大会で「家庭側」に振り分けられ、考えが変わった。もちろん学校でやれるべきことはやるべきだ。だから学校と家庭の連携によっていじめのない社会作りに専念することが一番望ましいことだと考える。しかし、学校より家庭での教育やしつけを見直す方が重要で、効果的であると考えられるので、親が学校にばかり全ての責任を負わせるべきでないと思う。


  現代ではマナーや常識、自分の立場を理解していない若者があまりにも増えすぎた。そして同時に子供の機嫌を伺い、正しいことをはっきりと教え、しっかりと叱れない大人が増えてしまった。「なになにをしてはいけない」と言えば、今時の子供は「なんで」と反論したり、屁理屈を言ったりするだろう。「ならぬものはならぬ」、「教えるべきことは叩き込むべき」という考えが薄れているのだ。この二つの言葉は先週見たドラマ「白虎隊」から学んだ言葉だ。江戸が明治に変わりつつある不安定な時代の中で武家の子弟たちは什の教えを肝に銘じ、自分の生まれてきた時代の現実を受止め、懸命に生きていた。この子供たちは家庭のしつけがしっかりとしていて、人として生きていくべき道を逞しく歩んでいた。また、什の教えの中には「卑怯な行いをしてはなりませぬ」というのがあり、会津の子供たちは物心つくころからそれらを徹底的に教え込まれていた。「卑怯な行いをしてはなりませぬ」という、人として当然のことを親が今の子供たちにも教え続けていればいじめをする子供たちもそれをただ見るだけの傍観者も今より少なかったはずだ。

 

甘やかされた現代の子供たちに「ならぬものはならぬ」をはじめとする什の教えに準ずるものを厳しく家庭で教え、年上を敬ったり、他者を思いやる心が芽生えたら、いじめだけでなくたくさんの日本の現代の問題も改善されるだろう。

 

 

 

—いじめー


  北海道滝川市の小学校で、六年生の女児がいじめを苦にして教室で首を吊ったのは昨年九月九日の事だった。今月12日には、埼玉県本庄市の中学三年生と大阪府富田林市の中学一年生、13日に奈良市の中学三年生、14日に新潟県神林村の中学生。教育現場では、自殺の連鎖が後を断たないでいる。逃げ場を失ったのは彼ら、彼女たちだけではない。いじめた児童もストレスを抱えているのである。


  かつては暴力や恐喝など、犯罪に近い形でいじめが行われていた。だが今は悪口や無視、メールでの中傷など、大人には見えにくい形でいじめが進行している。また、専門家は90年代に比べいじめが一般化したと指摘している。直前までいじめられていた子がいじめる側に回る。その逆に、いじめていた子がいじられる側に回る。また、遊びや悪ふざけ、いじめの区別が意識されていたい事などだ。いじめている側の子は遊びのつもりでいたりして、罪の重さなどを意識しないまま、相手をいじめてしまうのである。結果、相手は自殺し、いじめた児童は、罪の重さやストレスを抱えたまま成長することになってしまうのである。


  いじめはけっして完全には解決しない。家庭も学校も、それを理解しなくてはならない。国際医療福祉大学教授の和田秀樹氏は、いじめは繰り返し起きることだと 指摘する。「子供同士なのだから、ささいな仲間はずれや悪口はつきものだと考え、早い時点で教師が介入して解決していくことのほうが、様々な意味で心理発達につながるし、被害者のほうも精神的に成長できる」いじめる児童もストレスを抱えるのである。その背景にある劣等感や寂しさ、焦りなどの混沌とした感情から彼らを救うことも大切である。


  2006年11月政府の教育再生会議は、8項目のいじめ緊急提言をまとめた。そのなかの一つにいじめた児童に対して奉仕活動をさせると明記してあった。いじめの事実が発覚した場合、まず、加害者と被害者の双方に話を聴く。そして、いじめた児童には早急に且つ迅速な指導を行う。そして、老人や障害者の介護、児童公園や排水路の掃除などの奉仕活動をさせるのである。そうすることで助け合う気持ちをはぐくませ、始めていじめた児童を劣等感や寂しさなどから救う事ができるのである。


  近年いじめによる自殺者は増加している。その中にはいじめられた児童だけではなく、いじめた児童も含まれている。彼らは、自分達の不安を解消するために他人をいじめているのだが、それが、逆に彼らを自殺という悲惨な結末に追い込んでしまっている。そういった混沌から彼らを救うためにも、いじめが発覚した際、適切な処置としていじめた児童には奉仕活動をさせるべきである。そうすることで、他者への献身や公共心がはぐくまれ、いじめられた児童といじめた児童をその混沌から救うことができるであろう。

 

 

 

 

いじめをなくしたい


 なぜ人はいじめるのか。私は第一に、その加害者となる人物の人格が理由だと思う。つまり、他人への思いやり、生命の人権の尊重、正義感などの基本的な論理観が十分養われていないのだ。第二に、ストレスやなんらかの悩みを抱えているからだと考える。家庭や地域社会など、周りの環境が問題なのであろう。


 では、どうしたらいじめを防げるのか。先に述べたように、善悪の判断など生活態度に関わるしつけが大切だ。これは家庭の役割である。生活体験・社会体験・ 自然体験・異年齢の者との交流を積極的に行ったらどうであろうか。すばらしい社会性を身につけることができる。


 しかし、すべてが家庭の責任というわけではない。子供たちにとって、人と関わる機会が一番多いのは学校であり、現にそのいじめは他でもない学校で起きているのである。教師の言葉は子供にとって絶対だ。だが一人の教師が何十人もの子供の変化を敏感にとらえ、対処することは至難の業である。そこで、学校のシステムとして子供たち一人一人を大切にし、一人一人の良さえお見出し、それを伸ばすことによって彼ら自身がその存在感や自己実現の喜びを実感させるようにしなければならない。ボランティアなどさせるのも良い手かもしれない。


 いじめはなくすべきだ。そのためには、学校や家庭、どちらか一方だけが指導すればよいという問題ではなく、両者が連携することによってこそできるものだと思う。すべての人々が相互に個性を尊重し、差異を認め合うことの大切さを知って欲しい。そうすることによって、いじめはきっとなくなると思う。

 

 

 

 

なぜ日本でいじめ問題が頻発するのか



  「出る杭は打たれる」といる諺が普段から良く使われたり、「えた、ひにん」という差別用語が昔に存在していたように、日本は昔からいじめ問題といろいろな形で関わってきている。つい最近、子供の間のいじめ問題が大きく報道されたため、いじめに対するディベートを行ったり、友達や家族と話をした結果、自分なりになぜ日本でいじめ問題が頻発するのか考えてみた。


  考えた末に思いついたのは、日本の地理的な事情である。日本の地形を他の欧米などと比べて分かることは、日本は島国で、異なる文化を持った国と隣接していないということである。米国を例として取り上げると、米国は昔から異なった民族や人種の移民により、一つの国の社会を成立してきている。異なった民族は、最初は互いを否定するが、しばらくすると自分とはまた違うものとしてその存在を受け入れるようになってくるのではないだろうか。この流れが米国には根付いている為、現在も人々は相手が自分から外見、考え方などが違っていてもお互いを認め合うという観念が出来ていると思う。これに比べ、日本は海に囲まれているため、昔から海外からの移民は極端に少ない。また昔から中国や韓国などから文化を受け入れることはあったが、江戸時代には鎖国などを行い外国の考え方が日本に入る事を防ごうとした。つまり、日本は自分達から異なる文化は大いに受け入れてきたが、考え方には反発的だったり、異人種には否定的だった。


  このことから、最近報道で取り上げられる小中学生によるいじめ問題の大方の原因は、いじめられる子供が少し他の子供達と異なった部分を持っているためではないかと私は考える。最初に述べた諺、「出る杭が打たれる」のように、少しでも周囲と異なると、周囲には認められず、冷たい目でみられるのが日本の現状である。


  もしも、日本の他者に対する観念が米国のように寛容であったならば、このような諺どころこか、いじめも頻発しないであろう。家庭や、教育の仕組みの変化なども日本でいじめが起こる理由になるが、根本的な原因は、日本という国が素直に他者を他者として受け入られる環境に無いからではないか、と私は考える。
 

 

 

いじめ問題

 


       北海道と福岡県に続き、岐阜県でも、中学2年の女子がいじめをうかがわせる遺書を残して自殺した。このいじめ問題は対処を学校だけに任せず、社会が力を合わせて断ち切らなければならない。

 

いじめ問題などが起きると、学校の責任を集中的に追及しがちである。しかし大半のいじめ問題は学校だけに責任を負わせても解決しない。作家の曽野綾子さんは産経新聞のコラム「透明な歳月の光」で、「自殺した当人も親も先生も、いじめをした側の当人も親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだろう。」と述べている。いじめ問題に限らず、教育は学校と家庭、地球社会の3者の協力によって成り立っている。だからといって学校が生徒指導に手を抜いてもよくないと述べている。


      いじめを止めるにはまず、周りの人が気づいて、その子と話し合い、いじめを止めていかなければならない。学校はいじめがクラスにないか日ごろから気をつけて、クラスをよく見ておくことが大切だ。学校側は、いじめられている子のために、話し合いの場を設けて、被害者の子が気軽に話せる場を作らないといけない。

 

例えばアメリカのように学年ごとにカウンセラーを設けたりし、いつでも気軽に人に話しをできる場を作らなければならない。さらに学校はいじめをした子にちゃんと罰を与えなければならない。アメリカの学校では遅刻や悪いことをしたらアフタースクールジテンションと言うのがある。アフタースクールジテンションというのは、放課後に悪いことをした子達が集まって反省し、勉強させられる所だ。これは一番軽い罰で、次にISS(インスクールサスペンション)というのがある。ISSはアフタースクールジテンションよりも罪が重く、ケンカなどをした子達が入るところだ。ISSとは普段の自分の授業には行かず、このISSを貰った人たちが集まる部屋に行き、そこで一日反省し、勉強されられる。この様なアメリカの制度は日本にも必要じゃないかと考える。日本の学校はこのようなしっかりとした罰が必要ではないだろうか。アメリカはこういう罰がしっかりしているからいじめなどが少ないんではないだろうか。もちろんいじめがゼロというわけではないがアメリカのこのような制度はすごくいいと考える。この様な制度を取り入れていくためには学校だけではなく社会全体の協力が必要となってくる。

 

さらに、アメリカのある学校では普通の授業を削っていじめについて話し合ったり、みんなで考えている。ランチを一人で寂しく食べている子には積極的に一緒に食べてあげたり、学校にいじめはよくないなどと書いたポスターを貼ったりし、子供達にしっかりいじめはよくないと教えている。この辺も日本はアメリカを見習うべきではないだろうか。

 

やはりいじめを止めるには親、学校、社会全体の協力が必要となってくる。いじめを一つでも減らせるように、これから社会全体で努力、協力していかなければならない。そして、いじめられていても一人で悩まず、決して自殺を選んではならない。

 

 

 

 



 

囚人への臓器移植


   「働かざるもの食うべからず」という諺にあるように、社会に貢献するどころか犯罪まで犯した囚人に、ただでさえ入手が困難な臓器を住民の税金で囚人に移植す るのは、日頃働かず、ごろごろとしている人が毎日一生懸命働いている人の収入で高級なものを食べていることと同じように聞こえる。
   確かに、一度や二度の自ら犯した罪があるということで、臓器の提供の権利が与えられないのは不平等ではないかと、私も最初は囚人への臓器提供について賛成 だった。しかしよく考えた結果、最初に述べたように反対するに至った。

   事実、国内で臓器手術を受けることが出来ずアメリカなど欧米の国まで行き、手術を受ける人々がいるということを私は以前本で読んだ事がある。海外で臓器提 供を受けるには、往復の飛行機のチケット代に始まり、難や彼やと莫大な費用がかかるだろう。裕福な家庭ならまだしも、費用を出すのに大変な家庭などは、経済 的な問題だけではなく、「海外で移植を受ける」という不安も抱えているだろう。そんな中で、自分の国で、言葉が通じる国で、お金は州の税金が払ってくれるか らと心配せず、ただ臓器を提供されるまで痛みをこらえる必要しかないのは、少なくとも一度社会で破壊行為をした囚人達である。こんな事が、州全体、アメリカ 本土全体だけでなく海外まで広く知れ渡ったら、臓器提供を受けた又はこれから受ける囚人は苦労して税金を州に納める住民に限らず、遠い海外から不安と苦労を 募らせて臓器提供を受ける人々からも強い憤慨や納得がいかないという声が殺到するだろう。そして、資料の実例の様に、臓器提供を受けても、その後で拒絶反応 抑制剤の服用を怠るなどとしてアフターケアを行わず、死亡する囚人は、臓器を提供した方や、税金を払った住民、海外で臓器提供のチャンスを待っているあるい は、チャンスさえ持てない人々に対してあまりにも心ないと思う。このようなことが何度も刑務所の中で行われば、貴重な臓器がもったいないだけでなく、様様な 所で悲しみに暮れる人が増えるだけで、何のいいところもないに違いない。

近いうちに、囚人への臓器提供の選択が囚人だけでなく幅広い人々にどのような影響を与えるのかを考えて、選択を正しく行う人が増えて欲しいものだ。
 

 

囚人への臓器提供


 アメリカのカリフォルニア州で、囚人が心臓移植を受けたことが問題になっている。加州の市民は税金を使って二百万ドルの手術を政府が囚人に受けさせたことに納得できず、これについて新しい法案を作ろうとしている。その法案とは、囚人を臓器移植対象外にするという選択ができるようにするというものだ。この問題について、囚人に貴重な心臓移植を受けさせることに反対する人もいれば、囚人も普通の市民と平等であると考え、心臓移植を受ける権利があるという人もいる。

 しかし、囚人と市民が平等であるというのならば、囚人にその手術を受けさせるべきではなかったと思う。政府が税金を使ってその囚人の手術などの費用の全額を負担したことが問題の焦点なのでないかと思う。心臓移植の手術のために二百万ドル、約二億円も出せず、必要でも手術を受けられない人もいる。募金を募って手術の費用を集めるなどをして心臓移植を受けることもできないでもない。移植を受けるために大変な思いをしている人もいるのに、政府が囚人にまでこのような手術を受けさせることは不平等だ。政府は囚人が管理化にあるという責任などがあるが、一般市民にはない権利を与えてはいけないと思う。このようなことが許されると心臓移植を受けたい人が罪を犯して刑務所に入れば費用を政府に負担してもらえるという考えにもつながってしまうのではないだろうか。囚人の手術の費用を政府が負担するならば一般人の費用も負担するべきだ。

 犯罪を犯した者だということを理由に権利を奪うことには反対するが、加州の囚人の場合では、刑務所に入っていたことで一般市民には与えられていない利得を得ていたのだ。囚人と市民が平等であるべきならば、囚人が心臓移植を受けるなどという政府からの特別扱いを受けることは間違っていると思う。

 

「囚人への臓器提供」


   カリフォルニア州で囚人に臓器提供をすることに納得できないという人々からの不満の声が数多くあった。その結果、カリフォルニアのジェフ・ダンハム州上院議員が運転免許を取得する際、囚人にも臓器提供をするかしないかの二択が選べるようになった。

   多くの人は囚人に対しての臓器提供は反対といっているが僕はそう思わない、囚人にも臓器を提供するべきだと僕は思っている。なぜなら、囚人にも病気がある時には健康保険の機会を与えるべきだと思うからである。

   記事の中で臓器を提供しない派の意見を見てみたらある人は「税金の無駄」という非人間的な意見があった。いくら罪を犯したとはいえ、同じ人間なのだから人間として平等に扱えないのだろうか?それに「税金の無駄」と言って見殺しにする人も犯罪者と同じことをしていると思う。例えばアメリカで黒人が差別されてい時代、同じ人間としてという理由で平等になれた。その理由が通じていたなら犯罪者も同じ人間として平等に扱うべきだと思う。それに犯罪者の中には人の命を奪った人もいるのだが、彼らには被害者のやその関係者のためにも殺害の罪を一生償わなければいけないそのためにも彼らに長生きをさせて死ぬまで罪を償わせればいいのではないかと思う。

   税金や臓器の無駄というのはあまりにも酷いのではないかと思う。せめて人間としての感情を持って人と人が協力し合う世の中になってほしい。

 

履修漏れ


    学校指導要領で必須と定められている世界史の授業が全国の高校の多くで実際には行われておらず、生徒の単位不足が発覚した。まず第一にどうしてこのような事態が起きたのだろうか。

 

その理由には四つの背景があるとされている。指導要領と受験の実情との食い違い、歴史教育のあり方、大学入試制度、そして取り入れら
れてまだ歴史の浅いゆとり教育のシステム。主にこの四つの問題が浮き彫りになってはいるが、実際に履修漏れ問題の引き金を引いたのは一つ目の指導要領と受験の実情との食い違いにあると考えられる。


  高校の指導要領は改訂により「世界史」は必修とされ、その上で日本史か地理を選択することが義務付けられた。しかし、問題は選択科目と結びつかない大学受験にあった。大学入試センター試験では文系でも「地理・歴史」から一科目選択の大学が主流になっており、受験生は範囲が広く、負担が大きい世界史を選択することを避ける傾向が強い。これは受験生なら誰でも取る行動として予測できることだ。そのため高校はこういった実態を重視するあまり規則を守らなかったのだ。進学率のため、受験生のためと理由を付け、生徒の模範であるべき立場の高校が自らルールを破ってしまったのだ。


  高校は大学までの通過点としか考えていない学生が増えているが、それは間違いである。高校は大学受験のみのために存在するのではない。それでは受験対策用にと通う塾と何も変わらない。学校での勉強は大学に入学するためだけにあらず、広くたくさんの基本的な教養を身につけ、社会に出たときに一人の人間として生きていくうえで役立てるためにある。受験合格をゴールとした考え方と勉強イコール受験という姿勢を改めて根元から考え直す必要がある。そういった面でアメリカの高校・大学のシステムを検討し、解決への一つの案として取り入れるのも良いだろう。アメリカでは、高校四年間のうちで最低でも三年の歴史の授業を受けることが卒業するにあたって必要となっている。たいていの公立学校では地理、世界史、アメリカ史、政治・経済を四年間で学ぶ。また、私立校でも最低でも世界史、アメリカ史、政治・経済を学ぶことが必修となっている。明らかに日本の学校より学ばなければいけない歴史の量は多いのいに履修漏れの問題が起きていないのは何故だろう。それはアメリカの大学入学のシステムにある。

 

アメリカの大学では受ける学校ごとに入試ではなく、代わりに全国統一試験だけある。各大学はこの全国統一試験の結果、高校四年間の成績、それと各大学に提出されるエッセーを見て合否を決める。このようにアメリカの大学は日本の大学と違い一回きりの試験の結果ではなく、高校で学習した教科の成績や課外活動を重視している。大学に受け入れられるために高校での授業は全て必要なものとなっているのだ。だから、何か特定の科目が受験で必要という考え方はなく、大学のために学ぶのではなく、自分自身と将来のために学ぶという考えを持って、生徒は意欲的に勉強に励むことができるのだ。


日本もアメリカのこのような点を見習って一つの科目においての試験で入学の合否を決めるのではなく、高校で学んだ授業内容が全て必要であるという考え方へと切り替えて新しいシステムを導入すれば、学生は与えられた中から選択するのではなく、学びたいことを学ぶという教育本来の目的に近づけるのではないだろうか 。


 


高校「必修」逃れ


    全国各地の高校で生徒に必修科目を受けさせていなかったことが分かった。この必修科目は学習内容の最低基準として文部科学省に定められているのだが、生徒の授業が削られていたことが分かった。この履修漏れの結果、卒業までの五ヶ月間に七十回もの必修授業を負担しなければならない。


 このようなルール無視があったことは学校と教師の責任だと言う教師に対してそれでも必修科目は受けさせるべきだったという批判の声が高まっている。しかし、教師や学校だけでなく生徒にも問題があったのだ。最近の高校は受験ばかりを重視しすぎている。学校では受験で必要な科目だけでなく、大人になってからも役立つことを学ぶ場所だということを忘れている。そのため、学校の授業中に予備校や塾などの宿題をやていたり、塾の宿題はやるのに学校の宿題はやってこない生徒が多い。「勉強」の目的が「学ぶ」ではなく、「受験合格」に変わってきているように思える。


 この履修漏れの問題を解決するには大学入試試験の内容を高校の必修科目に合わせる必要があると思う。全ての必修科目を大学受験に必要なものとすればこのようなルール違反は起きないだろう。必修科目とされている授業の中では生徒達の将来に必要なものが含まれているため、必修逃れを許さないような大学受験方法をつくるべきだ。
 

 

チェルノブイリ

    チェルノブイリの原発事故は、私にとってとても印象深い。何故なら、まだ小学生だった頃、母と共に訪れたコンサートーー多分、平和コンサートやチャリティーコンサートの類ーーに行った時、ウクライナ出身のナターシャ・グジーさんが、民族楽器、バンドゥーラの音色と共に美しい歌声を披露した後に、とても流暢な日本語で、チェルノブイリの原発事故と、その被害について話していたからである。 

 原子力発電、それは現在の日本の発電の主力を担っている。その原子力発電によって起こった事故の話を聞いて、当時、チェルノブイリが何であるかも知らなかった私は興味を持ち、それからというもの、暫くは毎日図書館に通う、休み時間を学校の図書室で過ごす等して、次から次へと関連する本を読み漁り、その事故の悲惨さ、残酷さを思い知ることになった。

 原子力発電所から遠くても、被爆して甲状腺癌を患った子供、事故の後始末をしたために被爆して帰らぬ人となった人、もしくはそれが原因で現在苦しんでいる人々、そしてその子供達。全て初めて知ったことだけに、その衝撃は大きかった。その前後に、日本でも茨城県東海村の臨界事故が発生した。チェルノブイリの事故に対して、日本の原発は炉が違うから『安全』であったはずなのに、職員が時間短縮のために行った無理な作業という、ほんの小さな不注意が事故を招いたのだった。 

 日本は唯一の被爆国として、原子力や核の恐ろしさについてどの国よりも理解しているはずにも関わらず、先に述べたとおり、原子力発電は日本の発電の主力である。資源に乏しい狭い国なのだから仕方のないことなのかも知れない。しかし、本当にこのままで良いだろうか。殆どの事故は、注意すれば未然に防げるとされているが、今までに起きた事故にせよ注意をしていなかったわけではなく、細心の注意の中に思わぬ落とし穴があったのだろう。 事故の可能性を0%にすることは不可能であるし、日本が小さな島国である限り、原子力発電を無くすことは難しいかもしれない。だが、現在の問題点を解決することなく、これ以上闇雲に原子力発電所を増やしていくことだけは止めて欲しい、と切に願う。 

 

 

  

英語教育

 

 

世界に通用する国際人の育成—
日本人の英語教育狂躁


   文部科学省は、二〇〇二年七月、「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を作成し、二〇〇三年三月に公表された、「英語ができる日本人育成のための行動計画」では、その戦略構想に基づき、今後5カ年で「英語が使える日本人」を育成する体制を確立することを掲げた。そのために、二〇〇七年を目指した英語教育の改善の目標や方向性を明らかにし、その実現のために国として取り組むべき施策をまとめた。いずれの改革も、日本人としての誇りを持ち、英語を駆使して世界を舞台に活躍できる人材を育成することが目的である。

 

日本は、一九八五年に世界一の債権国となり国際化時代を迎えることとなった。それにともない、英語は必狂のものとなった。しかしながら、中学で三年間、高校でも三年間、大学では教養課程とし二年間、計八年間の英語教育が行われているにもかかわらず、日本人の英語が通じないなど、実用的な英語が身に付かず、それらはすべて大失敗に終わった。そして新たに行われようとされている事が、小学校での英語教育である。「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」や「英語ができる日本人育成のための行動計画」のための一つの方策である。しかし、英語教育の小学校 への導入は、それほど期待できないものと考える。


   外国語の教育に、前向きに取り組む本人の意思と整った環境がなによりも必要とされる。だが、今の日本には、英語を正式教科として教える体制が整っていない。 英語の発音やリスニングのためにも外国人教師による授業が望ましい。また、幼い頃から外国人に教えられるということは、その国の文化や発想も教えられる事になる。だが、全国約二万三千の小学校に外国人を確保するには、膨大な費用がかかる。それに週一時間程度の英語教育では、深い教養と的確な判断力を備えた国際人にはなれない。

 

私は、小学三年生までは、英国に住んでいた。日本に戻り、小学五年生になると総合学習の時間を使い、月一回程度に外国人教師が歌や簡単な挨拶などを教えに来てくれた。だが、実際に海外で現地の学校に通っていた私にとっては、とても簡単でつまらないものであった。また、外国人教師と言っても、外国から来た留学生であることが殆どで、毎度教えに来る人が変わっていた。それに、彼らは留学生であって本当の教師ではない。他人を指導することに関しては、全くの素人なのである。そんな彼らから教育を受け、一体どれくらいの事が学べるであろうか。 。簡単な挨拶などは学べるかもしれない。だが、文部科学省などが望んでいるような国際人には到底及ばない。もっとも、太田市の学校のように英語教育を徹底させれば別である。だが、その場合でも、英語と日本語を少しずつ小器用にこなせるだけの国際人もどきが出来るだけである。また、大半を英語で過ごすのだから国語力も低下する。つまりは、日本語と英語を中途半端に使える、中途半端な国際人にしかならないのである。

 

日本の国際化が進む中、文部科学省は、「子どもたちが二一世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身につけることが不可欠」、という考えのもと改革を行ってきた。また、その考えは一般国民にまで広がった。だが、英語が出来るからといって経済が発展するわけでもない。経済発展に必要なのは、技術と努力、それに質の高い労働者である。また、日本人が英語のコミュニケーション能力を身に付けたからといって、外国人と同等に話せるわけではない。大事なのは、話すことの内容を豊かにし、相手に尊敬されるような人間を作ることである。そのためにも、日本の文学、歴史、芸術、伝統などをより多く学ぶ必要がある。だから、今こそ、日本の英語教育狂躁に終止符を打つ必要がある。

 

 

 

 


「小学校英語教育導入」


   現在日本で小学校から英語を必須科目として導入するべきか議論されている。英語力を向上させることはグローバル化している国際社会において経済を発展させ各国と交流していくために日本の役に立つと多くの人は賛成している。これに対して、国語力低下や指導者確保の困難さなどの様々な問題点を挙げ反対するものもいる。得に藤原正彦氏は英語の早期導入は我々が日本人であるということの誇りや自信に悪影響を及ぼすと唱える。

確かに小学校での英語教育導入は読解力の低下し続けている日本の子供たちの自国への感心と知識増加への妨げであるものと考えられる。国民全員が英語を覚えることより、我々が日本人として己の文化や国に誇りを持って、知識を増やしていく方が大切である。いくら西洋文化を取り入れたり、英語が話せるようになっても、我々が誰であるか、何処から来たかは変わることはない。我々が日本で生まれ、日本人として生きていかなければいけないことも決して変わることはないのである。他国の文化を取り込むのは良いことではあるが、自分の文化も歴史もわからないうちに取り入れても何もならない。外国文化を取り込む前に、自国文化をしっかりと身につけ自国への自信と誇りを持つことが先決であると考える。現在の多くの子供たちは日本と言う国に生まれたことに誇りを持てないでいる。国を思う気持ちや時代に流されない信念や強さを今の子供たちは持ち合わせていない。日本では国旗国歌法というものが存在するが、この法律の存在こそが日本人の日本国民としての誇りの減少の証拠そのものである。その国で生まれたものは国を愛し、尊敬するべきである。教育委員会や日本国憲法が通達し、それを義務付けなければ実行しないのはおかしい。法律がなくとも、生まれ育った国を敬愛するのは当然のことである。


  逆にアメリカでは、国そのものが生まれてからの歴史は短いのに大いに自国への愛というものが持たれている。法律がないのにも関わらず、どこの学校でも毎朝国旗掲揚を行い、どの教室にも必ずアメリカ合衆国の旗と州の旗がおいてある。また外へ出かけても国旗を見ない日はない程町中、住宅街の中心地やファーストフード店の前で、誇らしげに立っている。アメリカ国民がどれ程自国を敬愛しているかは911のテロ攻撃でも明らかとなった。国や国民が危機に陥った時、アメリカ人はアメリカンプライドを全開にし、一つになり、国を守ろうとするのである。この愛国心に関して日本と明らかな違いは教育方針によるものである。学校や家庭で子供たちはアメリカがどれほど素晴らしい国かを教わり、アメリカのプラスな面を脳裏に植え付けられる。もちろん、過去の過ちやマイナス部分も授業で教えられるが、それでもアメリカ人である事に誇りを持つようにと指導を受ける。


  他国との交流を深め、世界が一つになり共に助け合う事はとても大事な事だ。だが、それはそれぞれの国が自国を愛し、想い、その上でお互いを支えあう存在になる事で成立する。私はアメリカ人として今の日本の状態が痛々しく思えてならない。国語の読解力が低下しているだけでなく、自分の生まれた国の文化も歴史も知らない子供たちがあまりにも増えすぎた。第二次世界大戦前の古き良き、強い日本の精神は何処へ行ったのだろう。だから、更に小学校に英語教育を導入する事で日本の文化がこれ以上侵食されてはいけない。歴史に刻まれ、今でも人々の心の奥深く生き続ける日本人の心と武士道のあり方を我々は次の世代へと受け継がなければいけないのである。でなければ、その昔多くの人に慕われ、尊敬されていた武士のように、日本から本当の意味での日本人がいなくなってしまう。


 

 

  

 

エッセー

 

高校一年生植物  
 



      一年生植物とは一年間で種子から生長し、開花し、枯れていく植物のことをいう。多年生の植物と違って、一回植えれば一回しか芽を出すことのできない植物なのだ。現地校の英語の授業で読んだ詩に使われていたこの「一年生植物」という言葉の意味は知っていた。だが多年生植物は一回植えただけで毎年も発芽をみることができるのに、一年生植物を植える価値や理由は何なのかという疑問を持ち始めた。先生に聞いてみたところ「そうなのよね。でもたまたま綺麗な花はこの種類が多いの。でもあなたの言う通り、その他に別に理由はないわ。」と返された。
 

この答えになかなか納得できず、一年生植物について調べてみることにした。どうやら植物は元々多年生であったと考えられていて、一年生植物が誕生したのは気候や様々な環境の変化に耐えるためだったという。一年生であることによってその植物は比較的短時間で気候や環境の好ましい時期に生長・開花できるのだ。そして開花して枯れた後、また種子を残し、新しいサイクルが始まる。一年生植物にはアサガオ、トマト、カボチャやパンジーなどの種類がある。


     先生の言っていたことは全体的な意味では間違っていなかった。綺麗な花はデリケートで折れやすかったりするため、このような成長の仕方をしなければ激しい気候の変化に耐えられない。私は一年生植物は毎年植え直さなければいけないと勘違いしていたが、そうではなく、毎年古い花が新しい種子を残してまた新しい花を咲かすことができるらしい。だが、元の種子からまた芽が出ることなどはないとのことだった。

      高校一年生とは一年間で中学生という生活から離れ、成長し、少し大人になって物事を学び、次の高校二年生という学年に進むまでの期間のことをいう。例年と違って、ただただ続くような学習をするための学年のつなぎ方ではなく、小学校から中学校までの間に学んだことを全てつめこんだ種から成長をする期間なのだ。

      そういう私の「高校一年生」は植物学でいう「一年生植物」とよく似ている。英語の先生が言っていたように、綺麗な花を咲かす種の命は一年。そして自分を「高校一年生」と呼べるのも良くとも悪くとも一年間。良ければその時間を楽しめるのはたったの一年、悪ければ改善するために与えられている時間はたったの一年。このように高校一年生と一年生植物は両方期限つきだった。植物は与えられた命の期間で生長し、開花しなければいけないのと同じように、人間も与えられた時間の中でやるべきことをやり遂げなければいけない。しかも、この一年の間に花を咲かせ、精一杯に学び、楽しみ、頑張らなければ、せっかくの一つの種、一つのチャンスが無駄になってしまうのだ。二度と同じ種から咲くことができないことを忘れずにいなければいけない。


      そしてその期限にも理由がある。人間も一年生植物のように様々な変化に耐えなければいけない。一年という期間中の努力と有効利用によって自分の実力を発揮して開花する時期を探し出すことでその様々な変化に対応できるようになるのだ。このような部分でも「高校一年生」の義務は「一年生植物」の仕組みと似ている。


 これらのことがすべてこの一年間でできたのかといったらもちろんそうではない。だが一年間でひたすら失敗をして学んだのがこれらのことの重要さなのだ。そして「高校一年生植物」が枯れる前に残した高校二年生の種子は、今度は「たったの一年の命」をもっているのではなく、その種子は若く、来年もまた芽を出しよりよい、綺麗な花を咲かせることができるのだ。

 

 

 

創作

 

 

自然の叫び



    信じられない。なんと綺麗な歌だろう。鳥達がベートーベンやシューマンの名曲に負けないよう歌っている。目の前には、花畑。誰にも邪魔をされずに太陽の友達になろうとどんどん背を伸ばしてゆく。蝶々が優雅に羽をひらひらと動かし風に流されてゆく。牛は鼻にぴかぴかのピアスをはめずに、何かをのんびり待っているようだ。草も雑草も牛に踏まれながらも負けずに生きようと頑張っている。空はペンキをこぼして青くなったかのよう。雲が風に流されてゆく。みんな自由に生きてるのであろう。せめて人間からは。

    今は高校の最後の冬休みで友達のゆうと買い物をしに行くため、モールへ一歩一歩確実に近づこうと雪の中を歩いていた。すると、誰かの手が私の頭をくるりと回したかのように、私の視線はいつのまにか右の方に釘付けになっていた。そこには、10人ぐらいの男性がせっせかせっせか働いていた。彼らは右手に光に反射してるのこぎりを持っていた。それでそこに生えている木を一本ずつ切り、その一本一本の木を殺し、森を破壊していたのだ。

 

私は突然その場所から離れなくなっていた。このことを金縛りと呼ぶのだろうか。誰かが呪文をかけ私の心臓を早く動かし、何かが私の心に入り込んできたような気がした。「奈々、行くよ。早く行かないと混んじゃう!」 ゆうの声で目の視線がゆうの方に向き、その魔法から開放された。さっきの胸が痛かった気持ちはなんだったのだろうか。私はそう思いながら、モールに着き、その後は買い物に夢中になり、その気持ちは私の中から違うところへ飛んでいってしまったかのようにまるっきり忘れていた。

    帰り道、両手に荷物をかかえ、風が吹く中私達は足を家の方へ動かしていた。行きと同じ道を通ったが、今回は魔法にかからなかったらしく、森が死んでゆく現場をみても、体が動かなくなるという事はなかった。安心してゆうとぺちゃくちゃ話していると、前に小さな白い物体が道に転がっていた。私の心臓はどんどん速くなりいつのまにか太鼓の音になっていた。一歩一歩慎重に、おそるおそる近づいてみた。私は私の目を疑った。小さなうさぎだったのだ。うさぎの心臓は太鼓の音も小太鼓の音も響いてはいなかった。きっと死んだ森から逃げてきたのであろう。人間は木の命を殺しているだけではなく、動物、植物、自然の命まで殺していたのだ。私の顔は寒さと風のためか青ざめていった。私はまた魔法にかかった。今度は誰かが私にぼそぼそと話しかけている。このままではいけない、人間は何て事をしているのだと。



    私は気付いた。きっと神様は、みんなに魔法をかけてみんなに気付かせようとしているのだ。このままではいけないと。人間は魔法にかかりやすい人とかかりにくい人がいる。魔法にかかった人が立ち上がってこの世界の自然を守らないといけない。

 

その夜私は夢をみた。

    鳥達がベートーベンやシューマンの名曲に負けないよう歌っている。目の前には、花畑。誰にも邪魔をされずに太陽の友達になろうとどんどん背を伸ばしてゆく。 蝶々が優雅に羽をひらひらと動かし風に流されてゆく。牛は鼻にぴかぴかのピアスをはめずに、何かをのんびり待っているようだ。草も雑草も牛に踏まれながらも 負けずに生きようと頑張っている。空はペンキをこぼして青くなったかのよう。雲が風に流されてゆく。

    「どーん!!」朝、木が倒れる音で目が覚めた。時間がかかるかもしれないが、今度は私が魔法使いとなって、みんな一人一人に魔法をかけ、この世の中をよくしてゆこうと私は決意した。




 

意見文

 

 

「 セメント樽の中の手紙」を読んで
 


  プロレタリア文学は、個人主義的な文学を否定し、社会主義、共産主義的思想と結びついた文学である。その代表小説の一つでもある「セメント樽の中の手紙」の主人公の松戸与三はセメントあけの仕事をしていた。一円九十銭という安い日当のうえ、細君の腹の中には七人目の子供もおり、とても貧しい暮らしを過ごしていた。そんなある日、彼はセメント樽の中に小さな木箱を発見する。十一時間に及ぶ労働を終えた彼は、小箱の中に入っている、女性労働者からの手紙を読み始めた。手紙には、クラッシャーにはまり、粉々にされた恋人の事が綴られていた。手紙を読み終えた与三は、 過酷な労働を強いられ死んでいった、自分と同じ境遇にある労働者の死に憤りを覚えるのだった。しかし、目の前にいる家族とその生活のことを思い、怒りのやり 場を失うことになる。


   この小説には、労働者の過酷な労働・生活の様子がとてもよく描かれていた。豊かな時代に生まれた私にも、生きるために働く人々の様子や大変さを切実に感じさせた。また、経済のグローバル化などの急な労働環境の変化の中で過酷な労働条件のもとで働いている人々の事を思うと、プロレタリア文学が訴えているものは、過去のものではないのではないかと感じた。


  18世紀に英国で産業革命が起きると、それを期に世界経済は急速に発展していった。日本では、1955年頃、戦前の水準に復興し、更なる高度成長が始まった。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。1968年には国民総生産 (GNP) が資本主義国家の中で第二位に達した。この経済成長は世界的に見ても稀な例であり、終戦直後の復興から続く一連の経済成長は、「東洋の奇跡」と言われた。こうした経済成長の背景で、与三のような労働者たちは、低賃金などの過酷な労働条件を強いられてきた。1950年代半ばから1970年代初頭までの高度経済成長期は、彼らのような労働者によっ て支えられてきたのである。


  プロレタリア文学の代表作「セメント樽の中の手紙」は、経済成長を支えてきた労働者の過酷な労働条件の様子を描き、訴えてきた。また、現在成長している各国 の経済の背景にも、その経済成長を支える労働者がいる事を私達は決して忘れてはいけないのである。
 

 

 

 

 

教師


   全国教師92万1600人のうち、病気休職者は過去最多の6308人に達したと文部科学省は公表した。その半数以上が精神性疾患で、それによる休職者は毎年増加を続けたどり、教師のうち0.39%という10年前の約3倍となったという。なぜこのように増加してしまったのか、考察しようと思う。

   このように増加しているのは、親の責任であると考える。最近、親は子供を甘やかしすぎる傾向がある。昔は、お父さんが一番偉く、お母さんが次・・・のように家族の構成がはっきりしていた。お父さんの言う事は絶対だったはずだ。しかし、今はどうであろうか。親に口ごたえする子供が増え、その口ごたえに勝てない親が増えてきた。家族構成がはっきりしなくなってきたのだ。以前よく「外に立って頭冷やしてきなさい」とか、「今日はご飯抜きよ」というフレーズを聞いたが、今も使われているだろうか。もちろん使われているだろう。けれど、それはほんの人握りである。今の親は自分の子供に対して甘いのである。子供は何をしても、ただいっとき怒られるだけだと思っているのであろう。そのため、子供は他の大人にまで生意気な事を言い、何をしても許されると思ってしまうのだ。


   YOMIURI社説では、子供が担任を嫌うと親に担任の先生の悪口を言い、親はそれを信じ、先生に怒りのメッセージを入れるのという。親は子供を信じ守るのが当たり前である。しかし、他の大人の意見も聞く事も大事だ。子供は、こうすれば親は担任に注意してくれるといい気になり、何度でも繰り返すことであろう。なぜ、子供の嘘や心を理解し、見抜けないのだろうか。

 

あと、子供の話を良く聞く必要である。子供がなにを言いたいのか、何を考えているのか、何を伝えたいのか、親は考えるべきである。子供が教師の悪口を言ったからといって、すぐに教師を責めるべきではない。教師側にもそうする必要があったのだとか色々理由があるのだろう。だから、まず子供に詳しい話を聞くべきである。なぜ子供がそのようなことをいうのか、子供の立場にたって、そして教師側にたって考えるべきだ。それでも子供のいってる事が正しいと思えば、校長に相談しに行ったり、まず教師に話しをしに行くべきだ。けれど、教師を責めるのは真実を見極めてからだ。そうすることによって、教師も一方的に責められることはなくなり、楽になるのではないのだろうかと思う。このような親の協力によって、来年度は心の病で休職する教師が減ることを願っている。
 

 

 

 

 

人種



   「みんな違ってみんないい」日本人なら、この金子みすずさんの「私と小鳥と鈴」を一度は聞いた事があるだろう。人々はそれぞれ違って、特徴があるのだ。私はこの詩に共感ができる。人々は個性があり、違うからおもしろいのである。しかし、今の世の中は自分から違った肌の人をどう見るのだろうか。


    私は今月チームサミットで人種に関する問題の話し合いをしに行ったとき、他校の色々な人種の人たちと話す事ができた。私のグループでは、学校での人種差別、人種に対してのステレオタイプについて話し合った。一番印象的だったのが、黒人の生徒達が、買い物をしにいくとき、お店の人たちは他の客より彼らに注意して見張っているように感じると発言したことだ。しかも1人だけではない、ほとんどがこの事実に同意していた。黒人だから何かを取っていくとでも思うのだろうか。店員は彼らの外見や、肌の色で行動している。もし私が店員だったら同じ事をしてしまうかもしれない。実際、黒人は白人よりも犯罪を起こしていてる。

 

さらに、イリノイ州で、カメラの前に財布を落としたというシチュエーションを作っておき、拾った人が正直に落し物として届け出るか、それとも自分のものにしてしまうか、と言う実験がおこなわれた。その結果、白人の2倍の黒人が真実を言わなかったのである。これは、彼ら一人一人の問題ではなくて、この社会にあるのではないか。私達が人種差別することにより、その苦痛によって彼らは色々な事がどうでもよくなる場合があると考える。人々は彼らのことについてもっと知るべきことがたくさんあるのだ。


   私はこのことを日本にいたころは考えもしなかった。私の周りはみんな日本人で、違う人種の子は1人もいなかった。みんなとお話をし、外に出て思いっきり遊んだ。確かに面白い子、泣き虫な子、明るい子、暗い子、いじわるな子、優しい子など、個性が違った子がたくさんいた。クラスの中でも違った友達のグループがあった。嫌いな人もいた。しかし、その人が嫌いと言う事は、その人の事をまず良く知り、性格が合わないという理由がほとんどであった。

 

もちろんアメリカに来てから人々の個性の違いはこちらでも同じであった。しかし、一つ日本とは大きな違いがあった。アメリカは1つの人種が住んでいるのではなく、アメリカは沢山の人種が集まった国なのだ。また、実際に生活して気がついたのは、同じ人種が固まって行動していることが多いと言うことだ。私もこれが当てはまる時があるであろう。果たしてこれは正しい事なのであろうか。仲良くなるためにはもちろん一人一人の性格にもあるのだが、それ以上に見た目、肌の色重視だけになっているのだといえよう。この背景には共通する、文化、安心感があるのだろう。同じ肌の色の人をみると、自分と同じ考え方、経験、文化が似ていて、自分を分かってくれると思うのだ。人々は肌の色によって、本当に性格を知る前に先入観念を与えてしまうのである。そのため、肌の色をはじめ外見によって、どの人と仲良くなろうとするか考える傾向がある。しかし、肌の色が違っていても、人は理解できることができ、分かちあえるのだ。


    人々は肌の色で印象で行動する前に、相手の事を理解する必要がある。そのためには、色々な人種の人達と話す事が不可欠であり、彼らの意見を吸収したりすることだ。そして、彼らの考え方や性格が分かり、彼らの肌の色で差別するということが減少するであろう。これが、見た目や肌の色ではなく、性格、個性、を尊重することにつながるのである。

 

 

 

日本のギャル


   「ていぅかぁ、人多すぎじゃぁなぃ?めちゃくちゃ暑いしぃ〜」という甲高い声が電車の中で響く。乗客の視線はいっせいにその子へ向く。早く池袋に着かないかなと私は思う。

   2006年の夏、私は日本へ一時帰国をした。今日は友達と五年ぶりに日本の花火を見に行った。大輪の花が夜空に咲き、言葉で言い表せないくらい綺麗であった。夜も少し遅くなり、私は山手線に乗った。たくさん歩いて足が棒のようになっていたが、あいにく電車のラッシュで空いてる席が見当たらなかった。仕方なく、私はドアの横に立つことにした。


   渋谷駅に着き、電車の中はさらにぎゅうぎゅう詰めになってしまった。気が付くと、目の前には、白とオレンジのメッシュが髪の毛に入った分厚い化粧の高校生二人組が来た。世間はこのような人達をギャルと呼ぶ。私は今まで遭遇した事もないようなタイプの二人と向き合わなくていいように、体の向きを変えようとしたが、人が多すぎて動けなくなってしまっていた。目の行き場に困った私は暗くて景色も見えないようなつまらない窓の外に視線を移すしかなかった。

 

そうして私が外を見ていると、ギャルの一人が混んでいるのにもかかわらず、いきなり床にどかっと座ってメイク直しを始めた。彼女のメイクは、濃く、見ているだけでも怖いほどだった。しかし、彼女は自分が迷惑をかけていることに全く気にしていないらしい。時間をかけて化粧直しをしていた。その子が立ってくれたら、他の人が少しでも余裕をもって立つことができるのに、なんと思いやりがない非常識な人なのだろうと思った。

 

やっと、メイク直しが終わったらしく、二人は話をし始めた。私はいつも持ち歩いているIPODを持ち合わせていなかったため、二人が話している事が全部聞こえてしまった。二人は、友達が薬をやっていて、自殺をした話、自分も薬をやっている話などをし、私は衝撃を受けた。住んでいる世界が全く違うように感じた。けれど、その話以外は私の友達がいつも話しているような普通の内容であった。


  世間は「ギャル」というだけで軽蔑の目で見ることが多い。私もその一人であった。肌を焼き、派手な格好をし、毎日パラパラを踊る彼女達が理解できなかった。特に衝撃を受けたのは、彼女達のメイクであり、普通のナチュラルメイクをしていたら、かわいい子達なのに、なぜそのような化け物みたいなメイクをするのだろうと疑問に思った。


  しかし、電車に乗っていた二人も最初から、そのような「ギャル」ではなかったと思う。なんらかのきっかけでそのようになってしまったのだろう。学校で先生とうまくいかなかったとか、親が自分の話をちゃんと聞いてくれなく、一緒にいるのが嫌になったとかいう理由があったのではないかと思う。もちろん非常識で誤解を受けてもしかたがない格好と行動をしている彼女達の方が悪い。しかし、世間はただ「ギャル」を見ただけで、変な奴らだと馬鹿にして見下す。しかしなぜそうなってしまったのか考えるべきではないのか。彼女達の思っていること、考えていることを探し出し、その原因を少しでも解決できるように配慮してあげるべきではないか。その心遣いと思いやりや愛情がいわゆる「ギャル」や非常識な若者を減らすことができるのではないかと思った夏であった。


 


 

宿題

 

古今東西、学生の生活を苦しめる物の一つに宿題がある。

 

宿題の定義は、1学校で学習したことの復習又は予習のために家庭でやらせる課題。2予め提出して考えさせる課題。3後日に解決の残されている問題。の三つがあるが、ここでは主に1について話そうと思う。 

 

さて、私が宿題をどう考えているかと言えば、「面倒くさいし、提出しても何も出てこない!」の一言に尽きる。  何故宿題を面倒くさいと思うのだろうか。答えは単純明快、単調すぎてすぐに飽きてしまう課題か、難しすぎて匙を投げたくなる課題が殆どを占めているからだ。「勉強は苦しくて当然。努力しない方が悪い。」という考え方もあるにはあるが、山のような宿題を徹夜してまでこなしたのに、体力が追いつかずに体調を崩し、学校を休んだことさえもある。そうなってしまえば、本末転倒というのではないだろうか。 

 

学校で出される宿題は全員が同じ課題を受け取る。しかし、一人一人は学力も理解力も違う。そんな中で、全員が同じ課題をこなす必要があるのだろうか。確かに、各自の弱点を集中的に補うような課題を考えるのは、手間がかかりすぎ非効率的である。また、それぞれの責任に置いて勉強するように、と言えば、勉強しなければならない人の内の誰かが勉強せずに済ませてしまうこともあり得る。だが、全員共通で受け取るその課題でさえ、十分で終わる人と一時間かかる人とでは効果が異なってくる。終わった後に更に勉強するかどうかでも違いが生じるし、全く勉強せずとも成績のいい人、いくら勉強しても成績の奮わない人も居る。その人達全てに合わせた課題でなくてもいいが、もう少し、柔軟性を持たせることは出来ないのだろうか。 

 

一方、宿題が全く出されなければ、 全く勉強せず、いっこうに知識が定着しない人、理解できずに躓いてしまう人が出てくる。宿題というある程度の強制力は確かに必要かもしれない。ただ、強制だけではやる気が削がれてしまう人もたくさんいるだろう。まず、宿題を終わらせて提出したときに全く達成感を感じることが出来ない。しかし、提出しなければ、成績の下降などのペナルティーが待っている。自分の学力の向上のための最低限の勉強、と言われてしまえばそこまでかも知れないが、見返りがないといまいちやる気が起きないというのは我が侭だろうか。その点、アメリカの学校でテスト前に受け取ったレビューシートに本物テストそっくりの内容が記載されていて、それをそのまま覚えればテストでそれなりに良い点数を取ることが出来ること、プラスアルファの課題を自主的にこなすことで少々余分に点数が稼げること、というのは私にとって大変魅力的だった。また、日本の学校で宿題として書いた日記にコメントが書いてあったときもとても嬉しかった。 

 

私がここで言いたいことは、学校で生徒全員に共通の課題を宿題として与え、提出しなかった者は減点して終わりにするのではなく、もう少しだけ、実益のある課題を与えるなり、一人一人を見つめて見るなりして欲しいということである。もう少しやりがいのある、やればやっただけ何か変化の起きる宿題であれば、やっていても楽しいし、達成感もあり、やる気も継続していくだろう。   

 

 

 

 

 

外国人労働者を受け入れるべきか


 最近日本の街中で仕事をする外国人労働者を見かけても、何の疑問もわかない、普通にある出来事となってきている。しかし、彼らのほとんどは違法に働いている人々であるらしい。このような外国人の単純労働者を日本は受け入れるべきであろうか。


 私は受け入れるべきであると思う。なぜなら、日本は3K労働と呼ばれる「きつくて危険で汚い仕事」をしたがらないからだ。それを外国人が代わりに引き受け、日本の経済を支えているのだ。しかも、日本はこの先超高齢化社会を迎え、ますます労働力が不足すると予測される。つまり、この先も更に外国人労働者に頼らざるを得ない状況なのである。


 確かに、出稼ぎ労働者を受け入れるということは、失業状態にある外国人が増えるということであり、どうしても犯罪が増し、治安が乱れるという恐れもある。しかし、グローバル化が急速に進んでいる現在、そういった労働者をせき止めることは困難だ。そもそも、外国人が犯罪を起こしやすいのは、不法に働いているために暴力団などと関わりを持つためである。合法的に働けるように法律の改正をして、もっときちんと受け入れ態勢を整えれば犯罪も減るのではないだろうか。また、彼らによって日本人も身近に知るようになって、国際化に役立つと思う。


 私たちがこれからしなければならないのは、うまく外国人を受け入れることだ。犯罪をできるだけ防止し、差別のない、日本人にとっても外国人にとっても暮らしやすい社会を模索することが必要であると思う。なんとか互いの文化の接点を見つけ、うまく共存してゆきたいものだ。

 


 

 


家庭での食事について



 三ヶ月前、私は家族でアメリカに引っ越して来た。私の生活は大きく変わった。その中でも私が特に変化を感じるのは家族との時間である。
 日本で私が家族と共に食事を取るのは、週に数回だった。学校が終わると、直接予備校に行ったり、バイトに行ったり、友達と遊んだりして、毎日家に帰るのは夜遅くだった。当然夕食の時間は、家族バラバラである。


 だが、アメリカに来てからは、日本と違い電車でどこへでも好きな時にいけないので、自然と家で過ごす時間が多くなり、食事も家族全員で取ることが多くなった。今日あったことを話したり、最近の事件について意見を言い合ったり、将来について真剣に話したりすることもある。この三ヶ月間でよりお互いの価値観や考え方を分かり合うことができたように思う。


 現代の日本の家族は、コミュニケーション不足だと思う。これは家族の連帯感がなくなっていくだけではない。親と密接に向かい合っていないため、自分の価値観がはっきりしない。コミュニケーションに慣れていないため、人との付き合いがうまくいかない。思いやりも持てない。そして、子供が非行に走ったり危険なことを考え始めたりしても、親は気づくことができない。つまり、最近の若者の犯罪にもコミュニケーション不足が関わっているのである。


 家族での食事時間は、大切なコミュニケーションの時間だ。親子が一緒に食事をとることで、親は家族の価値観を自然に子供に伝え、子供に自分の考えを伝え、子供も自分たちの生き方を親に示すことができる。私は、これからもこの大切な時間を守っていきたいと思う。

 

 

 

 

 

「赤ちゃんポスト」の導入について


   「捨てられ、失われる命を救いたい。」昨年末に熊本市にあるカトリック系の病院が国内初の「赤ちゃんポスト」の設置を国に願い出た。捨て子の相談数が年間200件前後とされる現在、このような設備を設けるのは大いに赤ん坊の死亡率の低下の手伝いになるだろう。しかし、この仕組みは本当に社会の為になるのだろうか。


   仮に、赤ちゃんポストが病院に設置されたとすると、次のような問題が予想される。まず、子育てに大変な思いをしている親達は、赤ちゃんポストを知ると、あそこに行けばもう大変な子育てをしなくて良いと自分の子を育てる事を簡単に放棄してしまう可能性があろう。親はどのように大変であろうと、子を出産したからには責任を持ち、子を育てていかなければならないものではないかと私は考える。しかし赤ちゃんポストの設置により、このような子育てへの心構えは徐々に薄れ、さらに、子を育てるという義務からの逃げ道を作ってしまうのではないかと思う。また大体の子供は思春期に近づくにあたり、自分の出生の事を少しでも知りたいと思う意欲が自然に生まれる。一般的に出産され、良い家庭に生まれた子であれば、自分の確実な出生の事実を親などから知る事が出来る。

 

しかし、赤ちゃんポストに預けられ、養子として思春期を迎える子の場合はどうなるだろうか。周りの人間が速やかに、そして優しくそのような子供への対応を行わなければ、思春期のため繊細になる子供が傷ついたり、傷つけられてしまう様な事も起こりうるだろう。つまり社会は、赤ん坊が赤ちゃんポストに預けられる時の事だけでなく、その赤ん坊の後先の対応までも考える事を強いられることになる。また対応が考えられたとしても、初めて行うものとして沢山の混乱が生まれるだろう。


ポストを導入する事で赤ん坊の死亡率を低下したり、赤ん坊を親の暴力から守るという役目は果たすだろう。しかし、養育放棄を助長したり日本の養育のあり方を変えずに、違う方法で赤ん坊が捨てられたり、失われる命を救ったりする事も可能である。社会は子育てに大変な思いをしている親の為にカウンセリングの場や赤ん坊を一時的、又は目的に応じて長期的に預かる保育所を増設することが必要である。

 

このように、地域は赤ちゃんポストを導入するよりも、親が子育てを続けていくことを容易にしてくれる設備に費用を費やすべきであると思う。   
 

 

 

 

 

漫画


 ほとんどの大人は、漫画というものに悪いイメージを持っている。「そんなもの読む暇があったら勉強しろ」このような台詞自体が漫画の中に出てくるくらいだ。漫画には暴力シーンがあるから教育に悪いとか、漢字に読みがふってあるから漢字を覚えないなどといった悪いイメージが大人にはある。


 しかし悪いイメージだけを持つのは好ましくない。漫画は子供から大人まで楽しめる読み物だ。面白いから読んで笑える漫画や、感動して泣ける漫画もある。小説のように想像力がつかなくとも、笑ったり感動できる読み物に偏見を持ってはいけない。


 最近は日本史などを中心とした、楽しみながら学べる漫画も増えている。今後はどのような漫画が出てくるのかも楽しみだし、時代が進むにつれて、勉強がしやすくなるようなものが出てくるのを期待していたい。大人には、いつも子供が読んでいる漫画を多めに見てほしい。

 

 


 

 

夫婦別姓

 

90年代前半から法制審議会という法務省の諮問機関が選択的夫婦別姓について話し合ってきた結果、96年に「法務省案」と呼ばれる法案が出来たのですが、これは、自民党などの一部の国会議員の強硬な反対にあって、結局国会に提出されませんでした。その後、当時の法務省案とほぼ同様の「野党案」と呼ばれる民法改正法案がくり返し提出されてきたのですが、常に棚上げになったり廃案になったりという事態が続いています。

 

その野党案が「選択的夫婦別姓」案です。婚姻届を出す時に夫婦が自由に夫婦同姓か夫婦別姓かを選べるようになっています。別姓でも同姓でも扱いに差はありません。 96年に夫婦別姓法案の提出を断念した法務省が、その後の02年に提案したのが「例外的夫婦別姓」案です。実質的には選択的夫婦別姓と大きな差はなく、婚姻届を出す時に夫婦別姓を自由に選ぶことが出来ます。しかし夫婦別姓に反対する国会議員への配慮のために、婚姻の原則はこれまで通り夫婦同姓で、夫婦別姓は例外として認める、という形を取っていて、婚姻中に別姓から同姓への変更を認め、別姓を同姓に導く道を残し、夫婦別姓があくまで「例外」だということを強調しています。


   02年の例外的夫婦別姓の提案を受けて、自民党の一部から続けて提案されたのが「家裁許可制夫婦別姓」案です。これは例外的夫婦別姓案よりも更に「例外」を強く前面に押し出した案で、夫婦別姓にするためには、婚姻届を出すのとは別に、家庭裁判所で許可を受けなければならない、というものです。つまり別姓に出来るかどうかは自分達では決められないということになります。しかも既に法律的に結婚して同姓になっている夫婦が別姓に変更したいと思っても、この案では出来ないようになっています。


  「通称使用」案は、夫婦別姓制度そのものに反対する一部の国会議員が、野党案に対抗する代わりの案として長らく提案し続けているものです。これは、姓が変わってしまった方の配偶者が、様々な場面で結婚する前の姓を使えるように法律で保護しようというものですが、通称はあくまで通称に過ぎず、結婚する時には夫婦どちらかが姓を変えなければならない夫婦同姓の原則は何も変わりません。


 法制審議会から数えても10年を越える議論を経て、今、様々な案が提案されていますが、未だ決定的な案というものはないと言って良いでしょう。数年毎に議論が盛り上がりを見せてはいますが、国会議員の中に強硬な反対派が少なからず存在することや、賛成派の中でも夫婦別姓に関する考え方の違いがあること、夫婦別姓を巡る世論調査の結果も、夫婦別姓を容認する人が増えていることは示しながらも、それが支配的と言えるような数字ではないことなど、マイナス要因が重なって、具体的な夫婦別姓制度の「実現」に向けた議論はなかなか進んでいません。国会では夫婦別姓法案の可否にまで突っ込んで具体的に審議したことは、今までにほとんどないというのが現状です。

 


《夫婦同氏の不便・不利益》
 氏には、「個人の同一性判別のための呼称ないし記号」という側面があると同時に、長期間の使用によって社会に対する自己の表現としての働きが生じるので、「人格的利益・財産的利益・社会的利益(16)」としての側面があると考えられる。婚姻による改氏が配偶者のどちらか片方だけに強制されることは今までに述べてきたが、そのことは即ち、改氏を強制する制度によって改氏配偶者にあっては、何らかの利益が侵害される可能性があり、よって、不便を強いられることになり得るのである。


 婚姻による改氏の不利益を要約すると、おおよそ以下のようになる。(17)
1. 自分が自分でなくなったような自己喪失感・違和感が生じる。
 
2. 女性側がほとんど改姓している現状では、夫と妻のあいだの不平等感がつきまとう。
 
3. その人としての社会的実績・信用の断絶。
 
4. 改姓にともなう手続きの煩雑さ。
(主に、運転免許・旅券・印鑑証明などの公文書、また、日常生活・職業活動にかかわる身分証明や契約上の書類など諸々の私文書の氏名の変更)。
 
5. 結婚・離婚・再婚などのプライバシーの公表を否応なく強制される。
 
6. 夫の「家」に吸収される感じがする。


    [1][2][5][6]は人格的利益の侵害であると理解出来る。これらは一見、感覚的で、そもそも利益などとは言えないようなものに対する不満に過ぎないようにも受け取れるが、それぞれ、自己の人格的発展・幸福追求に不可欠な部分を侵害されていると感じ取った結果の主張であることから、むしろ、より重大な人権問題として論じられるのが筋であろうと考える。人権問題について、詳しくは後述する。

 

 

また、[3]は氏の財産的利益の侵害と見ることが出来る。様々な職業において、氏名が信用の表象であることは論ずるまでもあるまい。特に、社会的な評価が職業的利益に結びつく者にとっては(18)、改氏により同一人物であることが分からなくなったり、仕事に支障が生じたり、信用や実績が断絶(19)してしまう恐れがある。旧姓を通称として使用すれば良いと考える向きもあるだろうが、立場によってはそれもままならない場合も多く、旧姓使用許可を求めて裁判になっているものもある。国立大学の教員である女性が婚姻による改氏をし、職務や研究には旧姓を使用しようとしたところ、大学側から戸籍名使用を強制され、そこで、その女性が、雇用主である国に対して旧姓の使用を認めるように訴えを起こした事例がそれである。全てに戸籍名を強制することは、その女性が旧姓で築き上げて来た研究実績を断絶させることとなったというのが原告の主張である。なお、この裁判は教育活動と研究活動において旧姓使用を認めることで和解が成立した(20)。

 

 

 

 

本当の美について  


    私はよく、友達から様々の相談話を聞かされるけれど、一番良くきくのは、「私は綺麗でないから彼氏ができない」という、結構ありがちの悩みです。けれど、この「綺麗」とは、どういう意味なのでしょう。広辞苑で引いたところ、 綺麗とは、「服装などが派手で美しい」とかかれてありました。でも、必ずそうとは限りません。今のサウジアラビア・アフリカでは、体が大きいければ大きいほど美しいと思われるし、昔のフィンランドでもそうでした。こんな様々の「美」の中に、世界的に通用する美はあるのでしょうか。  
   今の世の中は、外見にこだわりすぎてると思います。雑誌とかを見て、こうするともてますよ、綺麗になれますよ、と書いてありますが、それをしても、本当に美しくなれると思いません。人は、珍しいものを好む事が多いので、たとえ、日本にいる皆が同じ綺麗になれることをしても、皆がまったく同じになり、誰も美しくなくなると思います。外見を美しくするだけではなく、自分の個性を生かすことが大事だと思います。  
   外見にこだわりすぎている証拠は、最近問題になり続けている無食欲症などです。友達がなるまで分からなかったけれど、それは、体重の不安以外の問題でなる人も少なくないのです。その人は、綺麗になりたいという、純粋な気持ちが強くなりすぎて、ほかの友達に、綺麗になりたければやせればいいよ、と言われて食べなくなったのです。すでに綺麗で個性的なだったのに、なぜそのように「綺麗」にならなきゃいけないというのが分かりません。  
   本当の美しさは、外見ではなく、中身だと思います。けれど、性格だけではありません。程良い自信がない限り、誰も輝けません。いくら綺麗でも、自信がなければ、いつまでたっても未熟のままです。だから、自分の短所を見つめるばかりではなく、長所も同じほど見つめて自信を持つことから始めたらいいのではないのでしょうか。  
  
 

 

 

 

 

読書感想文

 

「走れメロス」 

 

田舎者メロスは街に買い出しに行った際、人間不信のために多くの人を処刑している暴君の話を耳にする。持ち前の正義感を発揮したメロスは、暴君を暗殺することを決意し、そのままの格好でのこのこと王城へ行くが、捕らえられ、持ち物に混じっていた刃物から即刻処刑を言い渡さ黷驕Bしかし、買い出しの理由でもあった妹の結婚式を見るために、友人のセリヌンティウスを人質に、期限までに王城へ帰ってくる約束をし、三日間の猶予を手に入る。メロスは川の氾濫による橋の決壊や山賊の襲来など度重なる不運に心身疲労困憊し、一度は王のもとに戻ることを諦め駆けたが、その時、自分自身が人間不信の暴君がいう『醜い人間』そのものである事に気づき、再び走り出す。暴君を見返し、自分を信じて疑わない友人の命を救い、無事に約束を果たすために。メロスは日暮れに町へ到着し、その姿を見た暴君は二人の友情に感動し、心を入れ替える。これがこの話の概要である。 

 

「メロスは激怒した」で始まるこの作品は、中学校の教科書に載るほどに有名で、文学作品が苦手である私でもすんなり読める程度の長さであり、また、読みやすい作品である。出だしの「メロスは激怒した」は読み手に非常に強いインパクトを与える。状況説明やモノローグから始まる話はたくさんあるが、このように言い切りから始まる作品は読み手の心を強く捕らえて離さない。続きが気になり、ついついページをめくる手に汗をかくような、テンポの良い話である。 

 

さて、私が中学校の教科書で読んだことのあるこの話をもう一度読むことにしたのは、宿題の読書メモを製作する上で、新しい作品を読むよりも一度読んだことのある作品を読む方が遙かに楽である、と思ったからなのであるが、実際に過去に読んだことのある作品を読み直すと、新しい発見があって面白い。 まず、面白いのが登場人物の名前である。主人公のメロスと友人のセリヌンティウス、それだけでも非常に個性的な名前であるが、中学校で実際に子の物語を読んだとき、外の国、特に英語圏にはこのような名前の人がいるのだと信じて疑わなかった。しかし、実際に米国に住んでみて、今のところは誰一人としてメロスやセリヌンティウスと言う名前の人に出会ったことはない。

 

そこで、何故この名前を登場人物に与えたのか、ということを考えてみた。小説の最後に伝説(ギリシア神話のエピソード)とドイツの古典主義作家、フリードリヒ・フォン・シラーのバラード形式の詩『人質』をもとに創作したと明記されているから、そのことに何か関係があるのかも知れない。

 

また、メロスが三日間の猶予を手に入れる代わりに人質になることを承諾しメロスの帰りを待つセリヌンティウスと、友を信じて困難を乗り越えて殺されるために暴君の元へ向かうメロス。この二人の信頼関係は筆舌に尽し難い。この物語を初めて手に取る中学生時代は、身の回りの関係が大きく変化する時期にあたる。その間に得た友人もかけがえのない者となるはずであるが、私にはそこまで信頼できる相手は今のところはいない。しかし、絶対的に信頼できる相手がいる、ということはとても素晴らしいことなのではないか、と思う。そんな二人であるが、メロスもセリヌンティウスも一度ずつ、相手を疑った瞬間があったという。それでも、その疑いを乗り越えて相手を信頼し続けることができる、これほど眩しい関係があるだろうか。だからこそ、人間不信の暴君が改心することができたわけではあるが、私はこの物語を手にした時期に、それが一番いい時期であったにも関わらず、何があっても信頼できる友人を手に入れることが出来なかったことを少し後悔している(決して今いる友人達を否定するわけではなく、絶対的な信頼を置けるような、そこまでの相手がいないというだけのことである) 

 

今回読み直して気づいた発見は他にもあるが、今回は此処までにしておく。まだこの作品に込められたいとを全てくみ取れたとは思わないので、またいずれ読み直したときに、新たな発見とがあることを楽しみに思うのは、私がこの作品を気に入っているからであろう。

 

 

 

 

 

「動物農場」 

 

「人間達にいいようにされている農場の動物たちが、反乱を起こした。朗トンをリーダーにした動物たちは、人間を追放し、『全ての動物が平等な』理想社会を建設する。しかし、指導者となった豚たちは権力を欲しいままにし、動物たちハメより酷い生活に苦しむことになる・・・」以上は、カバーから引用した、この物語の粗筋である。 

 

現地校の英語の授業で読むことになったこの物語であるが、まだESLに留まっているにも関わらず、私は英語で読むことを放棄し、ニューヨークへ旅行へ行ったついでに訳本を手にした。訳本の中では短編集の内の一つにしか過ぎないこの話も、英語の本では文庫本ほどの大きさの本まるまる一冊分にもなる。 この物語は、ロシア革命のいきさつを豚と農場に例えてユーモラスな皮肉で描いている。全体的に思い内容のはずで、特に、頭が良く文字の読める動物とそうでない動物の対比は、革命当時の上流階級と平民層の対比に似ているが、頭のあまり良くない動物たちの、「人間が居なくなったらどうやってご飯を手に入れればいいの?」をはじめとしたちょっと抜けた発言のおかげで、どこか笑える要素がある。しかし、この発言も裏を返せば、リーダー以外の一般市民達は、革命後、自分たちがどうするのかを全く考えていない、ということを表している。 

 

私が一番印象に残っているのは、やはりラストシーンで、「屋外の動物たちは、豚から人間へ、また、人間から豚へ目を移し、もう一度豚から人間へ目を移した。しかし、もう、どちらがどちらか、さっぱり見分けがつかなくなっていたのだった。」という場面である。動物たちがより良い牧場を作るために豚たちをリーダーとして革命を起こし、人間達を追放するが、豚たちが牧場を牛耳るようになり、気がついたときにはより良い牧場ではなく、依然と大差ない状態に陥っていた、と言う様子だ。 ユーモラスで笑える内容であるはずなのに、どこかで恐怖を感じるのは、今の一般市民観点から見た「全体が見えない政治」や「参政権を行使しない人々」を強烈に皮肉っているからなのだろう。

 

平成17年度 

失敗と成功

  人間は失敗と成功を重ねてきたからこそ今の立場にいるのだ。人は成功するためにある程度の努力をする。しかし、時々この努力は失敗にも繋がってしまう。「失敗は成功のもと」と言う人も多い。だが、「失敗」ではなくて成功する事を「信じる」事が成功のものである。

 トーマス・エジソンは一万回の「失敗」を重ねてやっと成功の栄光を実現させた。だがそれは失敗が産んだ成功ではない。エジソンは成功する事を信じていたからこそ電球の発明を成功させたのだ。「信じる」事ができなかったら、一回目の失敗によって夢はくだかれるだろう。エジソンはこう言う・・・「私は一万回失敗したのではなく、機能しない一万回の素材とその組み合わせを排除していっただけに過ぎない。」エジソンが一万回の『失敗』を成功と呼べるのは「成功する」ことを信じていたからだ。

 失敗が大事ではないと言っているのではない。失敗は信じる力を強くさせるときもある。エジソンの場合、「失敗」によってエジソンの信じる力が強まったのだ。逆に「失敗」は成功の道を切る恐れもある。

 失敗よりも「信じる」事が成功のもとなのだ。失敗には、「信じる」ことを強めるか弱めるかというプラス、マイナスがあるのだ。だから信じることをやめなかったら成功につながるのだと私は考える。(高2)

   

 

 「失敗は成功のもと」という言葉を私は幼いころから何回も聞いてきた。小学校の時、いろいろなことがうまくできなかった時に、私達は「失敗は成功のもと」と言い励ましあった。しかし私は最近このことわざを疑問に思う事がある。むしろこのことわざを使う人達を疑問に思うことがある。

 最近の人達は「失敗は成功のもと」ということわざの意味を分かっていないと私は考える。

 私は今までいろいろな挫折を経験してきた。何かがうまくいかないときも友達は「失敗は成功」と言い慰めてくれた。しかし、これは単なる慰めに過ぎず本当に成功するかどうかは本人の努力で決まるのだ。でも何回もこれを聞かされていた私達はいつしか努力と言う部分を忘れて「何回もやっていればそのうちできる」と思い込んでしまっている。これじゃ「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と同じだ。

 こういう間違った考えはとてもいいとは言えない。この間違った考えがニートという人種を増やしてしまう原因ではないだろうか。努力しないで何でもだらだらやっている人はもう一度この「失敗は成功のもと」ということわざについてよく考えて欲しい。(高1)

 

 

  諺に「失敗は成功のもと」というものがある。この諺通り、「失敗は成功のもと」になり得るのだろうか。

 私は、「失敗は成功のもと」になると思う。例え、失敗したのであっても、その問題点を改善し、再びやれば、それ以前にやった物よりも良い結果が出せるからだ。

 例えば何かを練習すること。私はピアノを習っていたが、その頃は練習が嫌で嫌でたまらなかった。新しい曲を弾こうとすると、必ず間違えるからだ。しかし、暫く練習を続けると、間違えずに退くことが出来るようになり、そして、発表会等の本番では必ずと言っていいほど成功を収めることができた。

 確かに、練習で退く一回一階は失敗の塊だ。だが、一つずつでもその間違いを直していくと、必ず成功に繋がる。その反面、失敗を恐れて何もしなかったり、失敗に蓋をしてしまったりしたままでは、成功に繋がることはない。

一番大切なことは、失敗を恐れたり、失敗から逃げたりすることではなく、失敗をどうやって成功に導くかを考えることである。そうすることによって、「失敗は成功のもと」になるのだ。(高1)

 

 

 「失敗は成功のもと」ということわざがある。私は「失敗は成功のもと」ではなく、「努力は成功のもと」と言ったほうが正しいと考える。

 一つ一つの失敗によって、人はより深い知識を得、より素晴らしい創造力や新たな疑問を生み出すことができるかもしれない。トーマス・エジソンは電球の発明を成功させるまでに一万回の失敗を経験した。彼の友人が一万回の失敗は多いと指摘した時、エジソンは「私は一万回失敗したのではなく、機能しない一万回の素材とその組み合わせを排除していっただけにすぎない」と答えた。機能しない一万回の素材とその組み合わせを排除していったという経験は、確かに一万回「失敗」したとも言える。だが、エジソンが成功した理由は、一万回の失敗によるものではなく、あきらめずに日々実験していった、一万回の努力によるものである。エジソンは一万回の努力によって実験を成功させたのである。

 身近な例で考えてみると「勉強」も同じだ。テストのためにだけ頑張って勉強をしても、良い点が取れない。それは努力が足りないからである。テストで間違ったところ、いわば失敗したところを復習し、また予習もし、といった努力をしてこそ良い点が取れるのである。

 人は皆、必ずしも完璧ではない。何かしら失敗することはあるだろう。ただ、失敗を繰り返していくのではなく、失敗したからといってめげずに努力していくことが成功への道となるのだ。だから、「失敗」ではなく「努力」こそが成功へと結ぶカギなのである。(高1)

 

 よく聞くことわざの中に「失敗は成功のもと」というのがある。果たして成功とは、失敗が生み出すものなのだろうか。それとも一握りの人間が成功を手にいれるのは偶然や知識があったためなのか。私は電球の発明に成功したエジソンの言うように、失敗は無駄ではなく、成功へと導くカギだと考える。

 第一に、失敗はけっして無駄にはならない。失敗を経験した者はその悔しさと悲しみをバネに次のステップへと移動するのだ。悔しさは驚くほどの力を人間に与えてくれる。その力は、その人間に成功したいという強い意欲をわかすことが出来る。意欲は努力と根気にも繋がり、やがてはいつか成功へと導いてくれるはずだ。

 私が失敗は成功へと繋がると考える理由はもう1つある。失敗というのはある意味挫折と同じものである。人間はみな挫折をいつかは経験する。挫折を経験し、強い意志で挫折を乗り越えられた者だけが成功を収めるとともに多くの喜びと達成感を感じる事ができる。

スポーツの世界でも挫折という言葉をよく聞く。挫折を経験した選手の中に、乗り越えられる者とそうでない者が必ずいる。どんな形の挫折であろうと乗り越えられた選手はより強くなって復活し、成功へという道を歩み始めるのだ。このようにスポーツの世界の中でも失敗から起こる挫折により、もっと強くなっていく選手は多くいる。

 失敗は時間の無駄を意味すると考える人もいる。しかし、失敗によって新しく学んだ知識とそれらに費やした時間は決して無駄ではない。失敗はそこから新しく学んだ知識を人間に教え、より強く、努力するための意欲をわかせる力を持つ。そしてその力が成功に結びつくのだと私は考える。(高2)

 

 

 私は「失敗は成功のもと」という意見に賛成する。人間は失敗を繰り返すことによって、その失敗はどのようにして起こったのかということから、いろいろなことを学び成功する確率を高める。

 私は今までいろいろなことに失敗し、そしてその失敗を成功に繋げてきた。私は小さい頃から野球をやっていた。始めたばかりのころは、コーチなどに指摘され続けてきたが、私は少しずつでも上達しようといろいろなフォームを試してみた。やはりその中に失敗も多くあり、成功に繋げるのは簡単ではなかったが、私は三年間かけて自分のフォームを見つけ出した。

 他にも学校のこともそうだと言える。学校には先生がいて、勉強を教えてくれる。そしてテストなどで実力を確かめる。しかし、もしも勉強のやり方が効果的でなく、失敗してばかりいると、もちろんいい点はとれない。だが、いろいろな勉強のやり方を探して、自分に合う勉強方法をあみ出せば、テストなどでもいい点が取れる。

 私はやはり失敗をするだけ成功することが可能になると考える。だからエジソンが電球を発明したように、失敗を一万回繰り返し、機能しない組み合わせを探し出すことは大切なのである。失敗というのはするべきことで、その失敗が成功に繋がる。だから人間は失敗してこそ、その人の最大の知識を出すことができるのだ。(高2)

 

 

「失敗は成功のもと」と人はよく言います。失敗を繰り返すと、いずれは成功の道へと続くという意味です。私はこのことわざに賛成します。

 ニューヨークに住んでいるブライアン・ヒルズが一九九五年に書いた「島人」という本を例にします。島に一人だけ残された主人公は島から逃げようとして何度も何度も船を作ろうとしていました。しかし、最初の方は失敗ばかりしてなかなか上手くいきませんでした。自分の間違いを直したり、色々な所を工夫したりしていくうちに、立派な船が出来上がり、島から脱出できました。この本で「島人」の主人公が失敗は成功のもとだと証明しています。

 もう1つの例は今世界中の人々に使われている飛行機です。昔飛行機が発明されたばかりの頃には色々な事故が起こり、沢山の命が失われました。その一つの事件は一九八〇年の事故でした。まだ完全に安全ではない飛行機がフロリダからオレゴンへ向いました。しかし、人は飛行機の中の圧力と外の圧力が均等にならなくてはいけないのを知らずに乗ってしまい、その飛行機は爆発し、何人もの乗客が死んでしまいました。その失敗の経験をもとに、どんどん飛行機を改良していき、現在皆が乗れる安全な飛行機が作られるようになって、今では毎日多くの人が空を旅しています。この例は失敗は成功のもとを証明しています。

 最後の例は私の経験についてです。私はプロジェクトのためにあるものを作ろうとしていました。しかし、上手くいかず、失敗ばかりを繰り返していました。それでもあきらめずに頑張り続けていたら最後に成功しました。

 この通り、失敗を何度も繰り返していても、諦めずに頑張り続ければその失敗は成功のもとになると思います。(高2)

 

 人は「失敗は成功のもと」とよく言う。だが、それは本当なのだろうか。

 二十世紀前半、アメリカではライト兄弟という二人が飛行機を作ろうとしていた。二人は自転車修理屋をやっていたが、人を乗せて飛ぶ物を作ろうとしていたことを人からバカにされていた。しかし、ある日やっと成功して飛んだ作品ができた。何回も失敗作を作ったにも関わらず、その失敗から学んで、次はもっといい作品、そして次はそれよりいい作品、と段々良くなっていき、遂に世界初の飛行機を作ったのだ。もしライト兄弟がいなければ世界にまだ飛行機がないか、発明がすごく遅れていたことになっていた。

 車を運転するのが上手い人がいるが、その人は当然最初から運転するのが上手かったのではない。ほどんど誰だって、初心者は車をどこかにぶつける。しかし、ぶつけることによって今度はもっと気をつけて、ぶつけないように運転しよう、と思い、ぶつけないようになる。このように失敗を重ねることによって車を運転することは上手くなれる。

 これらの例を見れば分かるように、人は失敗を重ねることによって成功するように自然にできているのだ。よって「失敗は成功のもと」であると私は考える。(高3)

 

性差別

 今の世の中で性差別を受けている人達は少なくない。同性愛者と女性が特に多く差別されている。こういう人達の為に特別な学校を建てる必要はあるのか。

 この「特別な公立学校」を作ると性差別はなくなるのかどうか考えて欲しい。学校の中での差別はなくなるだろう。けれどこのような特別な公立学校を建てると、世間に存在する性差別は悪化するのではないか。今まで差別を受けていなかった学生も、その学校に転校したら元の学校の友達にからかわれる場合も少なくないだろう。例えば黒と白のペンキを混ぜたいと思ったら、普通は同じところに出してかき混ぜる。特別な学校を作るとこの「黒」と「白」は絶対に混ざらないのだ。

 黒人は昔、厳しい人種差別を受けていた。今はその差別がなくなり始めている。それは白人と黒人が同じ環境の中で生活し始めたからだ。法律で黒人は認められ、学校や職場も同じになったのが第一歩だった。同じ環境で生活していても、差別はまだ続いているが、時間が経つにつれてこの差別はどんどんなくなっていくのだ。それはなぜかと言うと、黒人と白人が共有する場面があるからだ。人々は接しあってからこそお互いを認められるのだ。

 今、性差別を受けている人と受けていない人の接し合える場所は主に学校と職場だ。性差別を受けている人達のために特別な学校を建てると、ペンキを分けるのと同じで、混ぜられないようにしているのと同じだ。学校を建てることで差別がなくならないことは確かだ。また、性差別が悪化する事もありえないことではない。差別を受けるのはつらいことだろう。しかし、そこでつらいからと言って甘えてはいけない。本当に差別をなくしたいなら、なるべくたくさん接っしてコミュニケーションを利用し、相手を理解すべきなのだ。(高2)

 

 

 私は「性差別を受けている人達に特別な公立高校は必要」だと思う。何故なら「差別を受けている」ということは、普通に教育を受けるのが困難であるということに繋がるからだ。

 まず、差別を受けていると、その場に居づらくなる。それならば、差別の要因を取り除けばよいのかも知れないが、その要因が考え方の違いによるものだとすれば、それを理解して貰うのはとても難しい。私達が友人を作るときも、考え方の似通った人や考え方に共感できる人を探すように、差別を受けている人達にも、地震と同じような考え方を持つ人が身近にいる環境を作ることによって、過ごしやすくなるだろう。

 次に、社会に出てからのことを考える。社会に出てからは、差別を受けている人達だけを集めるのは困難だ。しかし、この学校で、社会に出たときにどうするのかを学ぶようにすればよいのだ。ひいては、この学校を社会から「性差別」をなくすための拠点となるようにすれば、差別を受けている人達がより過ごしやすい社会になっていくだろう。

 では、何故公立である必要があるのだろうか。地域や規定によって違えども、私立の場合は多少なりとも営利目的で運営せざるを得なくなる。そうすると、授業料を払えずに通えない人がいたり、人の集まりが悪くて学校運営していくことができなくなったりする危険性が出てくる。このようなことを防ぎ、全ての人に平等に教育を受ける権利を与えるためにも、こうした特別な学校は公立であるべきなのだ。

 以上三点から、私は「性差別を受けている人達に特別な公立高校は必要である」という意見に賛成する。しかし、一番大切なことは、そう言った学校無しに「差別を受けている」人達も私達も両者ともが過ごしやすい社会を作っていくことなのではないだろうか。(高1)

 

 

 今年九月、ニューヨークにゲイの男性やレズビアンの女性などの性差別の対象になってきた人たちをすべて受け入れる市立高校、ハービー・ミルク高校が誕生する。そんな中、このような学校が本当に必要なのかどうか意見が全米で分かれている。私はこのような「特別」な学校(もちろん盲目の人などの障害者用の学校は除いて)必要ないと考える。

 性差別が問題になっているからと言って、その人たちだけのために特別な学校を作る考えは間違っている。ある特定の者だけを集める学校自体が差別というのではないか。他の高校生にはなく、性差別を受ける対象にいる人達だけのための学校は他の「普通」の生徒から見れば、自分達への差別にすぎない。また私から見れば、この学校は「弱い者」同士が馴れ合い、支えあっているようにしか見えない。生徒達はこの学校に通うことで、自分達は他の人達と違うから、弱く、何かに守られてなければいけないんだ、という考えを持ってしまう。それでは生徒達はいつまで経っても守られて当たり前の「弱い」人間のままで、自分の意思を持った心の強い人間にはなれない。そもそも人間とはみな、何か特別な「あるもの」を授かってこの世に生まれてくる。よって、自分が他の人とは違うから劣っている、という考えは間違っている。

 また、この学校に通うことで未来が明るいと決まったわけではない。守られてばかりの弱い人間のまま高校を出てしまえば、いざ社会に出た時困る。ゲイのための社会やレズビアンのための大学なんて存在しないからだ。

 自分の個性や考えを尊重し、回りにも気にせずに生きられるようになれる人間が我々の最大の目標だ。そのためには特別の学校を作るのではなく、自分自身を強くし、自分も周りの人も好きになれるように努力するべきだ。特別な学校を作ることで差別は決してなくならない。(高2)

 

尊厳死

 尊厳死とは一般的に、本人に死期が迫っていることが明らかになった場合、人為的に延命をはかる目的のみの人工栄養や酸素吸入などを拒否し、自然の摂取によって人間らしく死を迎え入れることを言う。この尊厳死は一九八〇年代に社会的に取り上げられ、そして多くの国々に認められてきている。しかし、本当に尊厳死はあってもいいのだろうか。

 十五年にわたって植物状態にあり、政治と司法を巻き込んだ尊厳死で注目を集めたテリー・シャイボさんがいい例だ。彼女は一九九〇年に心臓発作のため植物状態に陥った。そして命綱である栄養補給の停止を求める夫マイケルさんと、延命の継続を望む両親が七年にわたり、主にフロリダ州の法廷で争っていた。妊娠中絶を「殺人」とみなす宗教右派はテリーさんの尊厳死にも反対し、生命の尊厳をめぐる論争は全米のメディアに大きく報道されていた。確かに宗教側が行っていることはある意味正しい。心臓が動いていて、温もりがあるということは生物的にいうと、生きていることだと思う。だが私はその意見に賛成できない。

 心臓が動いているということは生きていることだが、本人の意思がないと本当の意味で生きているとは言えない。私は生きているということは、本人に意志があり、他人とコミュニケーションができることだと思う。

 また尊厳死を認めることは、他者への臓器提供にもつながる。これにより多くのドナーが必要な人たちも救える。そしてそれは医学の発達にもつながる。これは他にいる尊厳死を迎える可能性のある患者に対して、対策をたてることもできる。そのため私は尊厳死はあってもいいことだと思う。(高2)

 

   

今、全世界で尊厳死で死ぬことを望んでいる人々が沢山いる。実際に尊厳死で亡くなった人々は多くいるが、望んでいても、尊厳死ができない人々も多い。その尊厳死は本当に認められるべきなのか。

 多くの患者が延命治療で生きており、沢山の人々は「チューブをつけてまで生きている人々は、生きているとは言えない」と言っている。しかし、私は生きているということは、心臓が動いていることと、息をしていることだと考える。

 自分のことを自分で判断できないということを「生きていない」と言うのはおかしい、と私は思う。もし、自分で判断できない人は生きていないと言ってしまうと、重い障害を持っている人々はどうなるのか。私はこのような人々は、みんな生きていると考える。他にも、「尊厳死までの治療費の負担が大きい」と言う人もいるが、私はこのことについても賛成できない。なぜなら、命というものは最も大切なもので、お金とは比べられるものではないからだ。私は、いくら治療費を払っても、その人自身が生きているということが一番だと考える。人間は死んでしまうと顔も見れなくなるし、会うこともできない。もし、延命治療をしてでも生きていてくれれば、それはそれで家族とか他の人々も嬉しいと思う。だから尊厳死は安易に認められてほしくないと私は考える。

 もし一度尊厳死を認めてしまうと、殺人に発展することもある。あらゆる面から尊厳死に賛成する人、それに賛成しない人が多くいる。尊厳死を巡り、多く裁判が行われているのも事実だ。

 私は簡単に人を死なせることは間違っていると思う。人間は親が苦労して産んで育ててくれているということと、そこに存在しているということに大きな意味があると私は考える。(高2)

 

   

 現在世界中で尊厳死に賛成するべきか、しないべきかということが問題になっている。主にキリスト教の人たちが反対の意見を述べている。彼らは、聖書により、生きていることに意味があり、尊厳死は殺人に値すると批判している。その他税金問題等も生じてくる。しかし私は生命一人一人を尊重したいと思うため、尊厳死に賛成する。

 尊厳死にはデメリットもあるがメリットの方が多いと私は思っている。まず最初に医療の立場から考えると、今まで延命治療を続けるために使われていた器具を他の患者に使うことができる。この事により、他のたくさんの人の命が救われる可能性が出てくる。また、尊厳死によって亡くなった人の健康な臓器が提供できる。このように尊厳死をきっかけに多くの命が救われるかもしれない。

 次に患者やその家族からの立場を考えると、尊厳死により、延命治療を続けるための治療費の負担がなくなり、患者の家族の気持ちが楽になるだろう。

そして私が尊厳死を認める最大の理由は「生命の尊重」にある。延命治療という人間が生み出した科学の力により、わずかな生命力で生き続ける事ができるようになった。しかしそれは自然から遠のいており、人間のあるべき姿ではない。人間は自然から生まれ、自然と共に育っていくべき生き物だからこそ、最後は人間らしく自然に帰って死んでいくべきだと私は考える。

これらの理由のため、私は自然らしく、人間らしく死ねる尊厳死に賛成し、認めるべきだと思う。(高2)

   

 

人間はここ数十年ものすごい速さで医療を発達させた。不治の病と呼ばれていた病気もほとんどが薬などで治るようになり、また余命が短い患者や脳死状態の患者でも延命治療で長く生かせられることができるようになった。

だが中には脳死状態になったら延命治療を施さず命を終わらせたい人もいる一方、宗教団体は生きていることに意味があるといい、その人の自己決定権を無視し、尊厳死を認めようとしない。

しかしいくら生きていることに意味があるといっても、宗教団体も尊厳死を認めるべきだと私は思う。

脳死状態の患者でも呼吸していれば生きているという考えもあるが、私はそうは考えない。ただ呼吸しているということが生きている証といえず、人間とは自分で考えることができ、感情をもって初めて生きていると呼べるものだと私は思う。また脳死状態の患者はすべての記憶を失ってしまう。つまりその患者は今まで自分が作ってきた人生の足跡をなくし、何も考えることができないのに、心臓が動いているというだけで無理に生かされているのである。足を失ったサッカー選手に命はあるので試合に出ろというのと同じである。

また延命治療に使われる費用のその一部も国民の税金から出ているのである。その患者とは一切関係のない人からの税金を延命治療に使うよりもまだ治る可能性がある人の薬代や手術代にあてたほうがいいのではないか。

以上述べたように、脳死状態の患者は人格が無いので延命治療を施しても意味がないし、また赤の他人が税金で払うはめになるので、宗教団体も尊厳死というものを認めるべきだと私は考える。(高1)

 

   

死期が迫っていることが明らかになった場合、人為的に延命をはかる目的のみの人口栄養や酸素吸入などを拒否し、自然の摂取によって人間らしく死を迎えいれることを「尊厳死」という。激しい苦痛を伴う不治の病の患者を苦痛除去を目的として死亡させる安楽死に比べて、尊厳死は、多くの国々で認められている。それにもかかわらず、尊厳死を実行する際にいろいろと問題が起きてしまう。

十五年にわたって植物状態にあったテリー・シャイボさんが三月三十一日、米フロリダ州のホスピスで死亡した。尊厳死を望んでいた夫マイケルさんと延命を求める妻の両親や両親を支援したキリスト教関係者達は七年にわたり、主にフロリダ州の法廷で争ってきた。確かに命綱とも言える人工栄養や酸素吸入などを拒否することは、キリスト教関係者が述べる「これは殺人だ」という発言にも繋がるかもしれない。しかし、このような尊厳死論争などといった問題をなくすためにも、法律上だけではなく、皆が尊厳死の大切さを認めるようにすべきである。

例えば、早い時期に尊厳死を認めるとすると、亡くなった患者の臓器や治療器具などを他の患者に提供することができる。それによって多くの患者が救われるのである。特に今は多くの病院で臓器や血液を必要としている。

また、延命技術などの近代医学の発達に伴い、死を望む人の人間性を無視しがちではないだろうか。人はいつか死んでいくのである。それを無理に延命させるのは自然の摂理に反している。

自然の摂理に反することなく、死期が迫っている患者の人間性をもっとも重視した「尊厳死」を宗教観にとらわれることなく、もっと多くの人々が認めるべきだと私は考える。(高1)

 

科学技術と人類の未来

科学技術とは、科学で得られた知識を応用し、人間生活に役立たせる(もっと簡単・もっと早く速く・もっと便利にする)方法のこと。科学技術の例には、医療・エネルギー(石炭・ガソリン)などがある。今、私の周りで多く耳にするのは、健康食品の変化についてである。

 いわゆる健康食品については、昭和五十九年七月に厚生省の内部部局が再編されて、環境衛生局食品衛生課が生活衛生局食品保険課になった時、「健康食品対策室」が設置され、これに併せて、健康食品を「栄養成分を補給し、特別の保険の用途に適するものとして販売用に供する食品」と規定した。科学技術の発展によって、人間の栄養成分で不足している部分がわかるようになってきたこと、その不足によってどのような病気になる可能性があるかが分かってきたため、様々な健康食品が作られるようになった。大きく分類すると、健康補助食品、天然・自然食品、栄養補助食品、低カロリー食品、医療品もどき食品などがある。また、この様な健康食品は、大きく三つの規格基準に分類されている。その三つとは、健康補助食品・特定保健用食品・特別用途食品である。特に多くの面で利用されているのは、「特定保健用食品」であろう。

 今、多くの人の食生活に乱れが見られる中で、健康食品を利用して自分自身の健康管理をしている人が増えている。では、健康食品によってどのような効果や影響があるのだろうか。特別用途食品の中にはナトリウムやたんぱく質を低減させた食品などがある。これは、高血圧症やたんぱく質の制限を必要とする腎臓疾患を持つ人が利用している。しかし、健康食品の中には、人間の体に悪影響を与えるものも多くある。今、多くの人々がジャンクフードなどの高カロリー・低栄養価のインスタント食品などを多く食する機会が増えてきている。その解決策として、多くの人がダイエット食品を利用している。ダイエット食品というのは、脂肪がつきにくくなったり、お腹の調子を整える、カルシウムの吸収を高くするなどの効果があるが、これらで本当に「ダイエット」をするのは難しい。他にも、数多くの健康食品が作られているので、一般の人には実にわかりにくくなっており、健康食品といっても、摂取を誤れば逆効果になっている場合が多くある。この様に間違った使い方をしていると、病気の予測や健康の保証はできないであろう。

 この様な状況の中で、これから健康食品はどう変わり、それによって人類はどう変化していくのだろうか。私は、健康食品はこれからすべての物が細分化されるようになると考える。例えば、どの健康食品がどの様な病状に効くのか、どのくらいの量を摂取すると、どのくらいの効果があるのか、ドの様な人に適しているのかなど、その一つの健康食品の詳細が示される様になる。私がなぜそう考えるかというと、今多くの人が不安定な食生活を送り、健康食品に頼る人が多いからだ。しかし、利用者の多くは、正しい利用方法をよく知っていない。この様な正しくない使い方をずっと続けていると、その物質が逆効果になり、それが病気に繋がっている可能性があるとも言える。この細分化によって、使用方法などがわかるようになり、利用する人の数も増えるはずだ。もしも、利用する方法が分かりやすくなり、正しく利用できるとすれば、その健康食品を最大限に利用できるようになる。それによって病気などを効果的に防いだり、治したりすることも可能になってくる。この様なことから、健康食品はより多くの人に知られ、身の周りの食品の多くが健康食品として作られるようになると私は考える。 しかし、人間という生き物は「食べる」ということに欲がある。「食」にこだわる人々が存在しているこの世の中で、すべての食品を健康食品にして作り直す、というのは不可能であろう。この様な人々のためにも、見た目・味・食感などが、ほぼ同じ健康食品も作られると私は考える。そうなると更に利用者が増えるであろう。

 今、多くの健康食品が作られ、多くの人が利用している中で、健康食品は大きく変化してきている。健康食品によって、人々の健康状態や食生活などがもっと豊かになり、飢えて亡くなる人を救うことも可能になってくるはずだ。この様な健康食品の変化によって、我々の食の文化は更に広がっていくだろう。(高2) 

 

 

 科学技術には、科学で得られた知識を応用し、人の役に立てるという一面がある。人類は火を加減し、水を治め、原子の力も利用するに至った。火や水、原子の世界を研究して、その性状を究め、危険性を認識しつつも制御できるとの自信を得たからである。それは試行錯誤の結果であり、多くの労力や時間を費やしてきた結果でもある。

 革新的に発展した科学技術の一つ目の例として、エネルギーが挙げられる。エネルギーは、第一次・第二次にわけられる。第一次エネルギーとは、石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料に加え、水力、原子力、地熱・薪炭など、主に加工されない状態で供給されるエネルギーである。我が国において石炭は石油に次ぐ基幹エネルギー源である。一次エネルギー供給に占める石炭の割合は、二〇〇一年度で十九・一%となっており、天然ガスや原子力を上回っている。石炭は、ガラス工業やセメント工業、製油工業、石油化学工業などで幅広く利用されてきた。建築物の壁や天井、床などに使われるコンクリートやモルタル、また、他の建材を作るのには石灰が使われている。石灰は埋蔵量が豊富な上に、埋蔵地域が広範囲にわたり供給の安全性が高いとされている。また、天然ガスや原子力は地球温暖化の原因とされている二酸化炭素の排出量が少ないとされている。これらの第一次エネルギーに対し、電気・都市ガス・コークスなど、第一次エネルギーを加工・変換して作られたものを第二エネルギーと呼ぶ。テレビを観たり、電話をしたり、料理をしたりすることなどに使う、これまた必要不可欠なエネルギーである。だがしかし、これらのエネルギーには弱点がある。化石燃料の大量使用は、地球の温暖化など問題を引き起こしている。また、水力発電や風力発電は有機物質を排出せず、地球環境への負荷は低いものの、森林破壊や騒音公害など地域の環境への負荷を与えている。

発展した科学技術のもう一つの例としては、兵器が挙げられる。二十世紀は「戦争の世紀」と言われている。第一次世界大戦、ロシア革命、第二次世界大戦、中国革命、各地の植民地からの独立運動、湾岸戦争などと、国家、宗教、民族間の対立が連続し、殺戮、飢餓、貧困をもたらした。第一次世界大戦(一九一四〜一八)は、「科学」が戦闘の勝敗を左右した最初の戦争だと言われている。この戦争で、様々な近代兵器が初めて実用化されたが、これらの多くは政府が科学者を動員して組織的に行った研究・開発の成果である。中でも、ドイツ軍が使用した毒ガス(塩素ガス)は、戦前のアカデミックな化学研究のデータを踏まえて、技術者が生産技術を開発した強力な兵器であり、対戦国を震え上がらせた。軍事目的での研究・開発は、環境汚染や倫理上の問題を顧慮しない、純粋に目的指向的なプロセスであり、これによって短期間で多くの兵器が開発できたということを実証するものであった。大戦後、こうした研究・開発の手法が産業界で積極的に取り入れられたことは、極めて自然な成り行きである。第二次世界大戦(一九三九〜一九四五)では、前にもまして大規模な軍事研究が行われ、レーダーや原爆を生み出している。二〇〇一年九月十一日にアメリカ同時多発テロ事件が起きた。ハイジャックした四機の大型ジェット旅客機を使った特攻攻撃に、アメリカは甚大な被害を受けた。犠牲者の数はおよそ三千人とされ、テロ事件としては史上最大の被害となった。この事件に対してアメリカは、テロを引き起こした世界の不安定要素を排除するためには武力の行使を辞さない強硬な姿勢を内外に示し、二〇〇三年には、イラクへの攻撃も開始した。アメリカは、この戦いで現代の科学技術を駆使したミサイル防衛(MD)システムや弾道ミサイル防衛(BMD)を導入した。それによりアメリカは一ヶ月足らずでフセイン政権を崩壊させた。同年十二月にはフセイン元大統領を拘束し、表面的にはアメリカは完全な勝利をおさめたかに見えた。しかし、終結宣言後もテロが頻発して戦中を上回る数の死者が出るなど、完全な平和を手にしたわけではない。兵器は、自分を守り相手と戦うためにうみだされたのにも関わらず、巡り巡ってすべての人間の将来を危うくする存在となってしまっている。

二十世紀に科学技術は大きく進歩し発展した。この発展は人類の明るい未来を約束するはずであったが、結果として、現在多くの解決困難な問題を生み出している。大量の生産・消費・廃棄は地球を汚染し、人体に直接的あるいは間接的な悪影響を及ぼすと共に、温暖化、砂漠化、酸性雨などの地球規模の変異も生じている。今後人類は科学技術発展の早さや大きさを追求するだけではなく、『科学技術は何のために必要なのか』という疑問に立ち戻り、その方向性を検討しなければならない。それが科学技術を用いて、自身の文化を発展させてきた人類がこれから先、追及していかなければならないことである。(高1)

 

 

 二十世紀に入ってから、科学技術の発展は急上している。今の子どもの生活と、その子の両親の生活は、比べ物にならないくらい違うだろう。科学技術が発展するにつれ、私達の生活環境も変わって来ているのだ。

 科学技術とは、人類が科学で得られた知識を応用して人間に役立たせる物や技術を現している。それは人間生活をより簡単に、早く、安全に、便利に快適にさせる方法手段なのだ。しかし、科学技術の影響は全て人類の生活をより良くしているとは限らない。科学技術と言えば「楽をするためにだけある」と思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。実際には科学技術によって、人類は多くの困難を体験している。

 私達の周りにあるエネルギーを利用して動く機械は、科学技術が発展したからこそ存在している。私達の生活に欠かせなくなってしまった電気製品は、人間の活動をより有効にやり遂げるために作られている。人類の文化の発展を向上させる為にできているこのような機械は、果たしてどういう影響を我々に与えているのだろう。当然私達が「今」やるべき仕事を減らしてくれている。しかし「今」の楽とともに、人類の生存に危機を与えている悪影響もある。

 環境破壊と犯罪は科学技術の発展につれ、どんどん深刻になっている。ガソリンを燃料として動く便利な自動車と部屋の温度を自由自在に調整してくれるエアコンは、私達人間の「楽」と引き替えにオゾン層を破壊し続ける。兵器も科学技術の一つだが、それは一部の人間達の為に他の人達を殺害するために作られた武器なのだ。兵器は人類の何の役に立っているのか考えて欲しい。 この前まで刀で精神を試し合っていた侍達の武士道精神は、今や昔話になってしまっている。二十世紀の戦争は原子爆弾を何個か飛ばして、のんびりとウィスキーを飲みながら相手が降伏するのを待つだけの戦争になってしまった。こういう面から見ると、科学技術の発展に「何が期待できるか」ではなく、「何を心配すべきか」を考えるべきだと思う。

 私達は「楽」を経験してから、それが当たり前になって、その「楽」を手放すことができなくなってしまっている。まさに「楽中毒」だ。例えば、学校に自転車通学している高校生がいるとしよう。その学生が高校を卒業して親から車を買ってもらった。車の便利さを経験してしまった青年が、外出する時に「自転車乗っていこう」とは思いもしないだろう。例え排気ガスが人類の生存に危機を与えていると知っていても、楽中毒にかかってしまった青年は車を乗るのを止めないだろう。私達が機械を捨てない限り、オゾン層はどんどんダメージを受け、地球はグリーンハウス化してしまう。海面は上昇し、地球上の生命は暑さに耐え切れなくなり、皆滅びてしまう未来はすぐ目の前にあるのだ。これを阻止するために人類は何をすべきなのか、考えて欲しい。

 科学技術の発展が危害を与えているのは、私達の生態だけでない。私達の心理や本能にも大きな変化をもたらしている。楽中毒にかかった私達は、苦労することを嫌がり、手間のかかる仕事はそれをしてくれる機械がないとやらない。私達は科学技術に頼りすぎている。地球上の機械が全てなくなる図を想像して欲しい。こういう場面で人類はどうするだろう。赤ん坊みたいに、泣きながら手足で地面を叩き始める人は少なくないだろう。人は楽だけを経験すると、ただの臆病者になってしまう。

 苦労と努力をしない人間が、命の価値観を理解できるはずがない。人を殺す、傷つける事に対して、人間は罪悪感を持たなくなっている。今やミサイルや原子爆弾を落とせば簡単に大勢の人々を殺せる時代になってしまった。侍の戦いでは相手の血が顔に飛び散っていたのに、今はテレビを観て間接的にしか感じとれない。これでは人間が「殺し」に対して何の感情も抱かなくなってしまうのも当たり前だ。このまま科学技術に頼り続けると、人間は機械同様、気持ちを持つ事ができなくなる。私達人間が命に関する本能を失ったら、どうなるだろう。ただのサイボーグ人間になってしまうのか。そうなったら、私達の世界は夢と愛のない世界に変わってしまうだろう。

 科学技術が私達の世界や本能に悪影響を与えているからと言って、楽中毒の私達が科学技術の全てを手放して、また原始人の生活に戻ることは不可能であろう。そうであれば、科学技術のマイナス面をどうすれば解決できるだろう。

環境破壊の問題を解決するには、やはり科学技術が必要だ。これは更に危ないリスクを負うことになるので、用心深く研究を進めなければならない。科学技術を利用すると、更に深刻な事態を呼び起こしてしまう確立も高いが、だからと言って、何もしないでただガソリンを燃やし続けるのは自殺行為だ。リスクは高いが、科学技術を利用する選択しかないのだ。

 科学技術が人間の本能に与える悪影響を阻止するには科学技術は使えない。必要なのは各人間の努力と苦労であり、それをもってはじめて人間は命の価値観を理解できる。自分が感情を持つ人間だと言うことを忘れないで、夢を抱いて前に進む気力を身につける事が大切なのだ。

 科学技術の発展は人間の文化と生活に大きな変化をもたらした。この変化が良いのか悪いのかは、それぞれの意見によって違うだろう。だが、人類は皆、科学技術を利用して毎日を過ごしている。だから今後の科学技術の発展はとても重要だ。私達が住む世界と私達の命に対する本能を守りながら科学技術の発展を行うと、人類の未来はより良くなるのは間違いないだろう。(高2)

 

 

 

 まず初めに、「科学技術」という単語を聞いたときに何を思い浮かべるだろうか。私が真っ先に思い浮かべるのは、機械文明、タイムマシーン、空を飛ぶ車、など、SF映画か近未来予想図とされているようなものばかりである。「科学技術」とは、「科学」と「技術」という二つの言葉から成っていることは言うまでもない。そのうちの「科学」とは、㈰一定の大将を一定の目的、原理によって考察し、体型を与える活動。㈪再現性があるもの。㈫地域性がないもの。この㈰〜㈫に一致する者である。また、もう一方の「技術」とは、㈰物事を巧みに使う手段や方法。㈪何かをやる特定の方法・特別な技能。を指す。つまり、「科学技術」とは、科学で得られた知識を応用し、人間生活に役立たせる方法、手段のことなのである。

 では、科学技術の例を挙げてみよう。ヒトのゲノムの解析、合成獣(キメラ)、クローン、遺伝子組み換え。これらは全て遺伝に関係している科学技術である。また、解剖学や幾多もの動物実験、臨床実験を通じて得られた医療技術は、科学技術の結晶と言っても過言ではないだろう。更には、リサイクル技術や発電などのエネルギー力学、健康食品、そして最近よく耳にするようになったDNA鑑定など、我々の身近なところにも科学技術は沢山ある。

 最近身近になってきた科学技術であるが、それらはどのように発展してきたのだろうか。私は、今回遺伝子に関する科学技術、主にクローンについて考えていこうと思う。まず、一八九一年にドリーシュはウニの卵の部活によって正常なウニ幼生を発生させた。これは、初めて人工的に作成された動物個体クローンであった。世界最初のクローン動物は、一九五二年にR.BriggsとJ.J.Kingがヒョウガエルの初期胚の細胞や核を、不活性化した未受精卵に移植することにより作られた。哺乳類では一九八一年に羊初期胚から核移植によるクローンを作成した。動物の体細胞クローンは、一九六二年にガードンによりアメリカツメガエルのオタマジャクシから核を移植することで移植されている。一九九六年七月にキャンベルらによって羊乳腺細胞核由来のクローン、ドリーが造られ、これはほ乳類の体細胞から造られたという点で注目を集めた。その後、一九九八年には同じ方法でウシのクローンの個体の成功が報告された。同年にWakayamaらが、体細胞を直接核を除去した卵子に注入することにより、細胞融合を行わずにクローン個体作成できることをマウスで報告し、このホノルル法が現在、クローン作成法のスタンダードとなっている。これらの方法を用いて、この後、多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されている。さらに、二〇〇五年には、哺乳類において最も生殖工学の転用が難しいと考えられていたイヌのクローン作成が、勧告の研究者グループによって報告された。しかし、ヒトのクローンは未だ成功していないとする考えが一般的である。

 さて、科学技術とは何を目的として発達してきたのであろうか。多くの科学技術は、人間の生活をより豊かに、便利に、快適に過ごせるようにするために進歩してきたのだろう。例えばクローン技術を使えば、クローンは元の個体と全く同じ遺伝子を持つから、拒絶反応無く移植手術を行えるようになる、と言った具合に。しかし、科学技術の根底には、ヒトにとって不可思議であるもの、すなわち自然に対して体系を与え、自分で理解できるものにする、というものがあるのではないだろうか。

 だが、便利を目指して発展してきた科学技術であるが、何も科学技術がもたらしたのは利便性だけではなかった。確かに、クローン技術が成功すれば、全く同じ存在を幾つも作ることができる。それは、良品質の家畜を量産することに繋がるかも知れないし、不治の病を治すきっかけになるかも知れない。また、数少ない細胞を増やしたり、臓器移植をする上で拒絶反応を無くしたり出来るだろう。その反面、クローンを作成すると言うことは、同一の遺伝子を持った個体を個人の都合で勝手に生み出すわけであり、その個体がヒトであった場合の人権や個性は、アイデンティティーはどうなってしまうのだろうか。ヒトでなくても、細胞を採取するために造られた動物、というものだって存在し得てしまう。また、現段階の技術では、ほぼ全てのクローン体には何らかの欠陥が報告されており、この技術を人間に適用するのは倫理的な問題以前に技術的な問題がある。また、細胞の分裂に必要なテロメアの長さが短いことも解ってきている。そのため、クローン体は通常より寿命が短い可能性も否定できないのが現状だ。

 では、近い将来、ヒトに対してクローン技術は使われることになるのだろうか。クローン技術の未来は一体どのようになっていくのだろうか。私は、ヒトに対してはクローン技術を用いることはできなくなるが、部分的な培養・・つまり、自己の細胞から人工的に臓器を作り出したり出来るようになっていくのではないか、と考えている。何故なら、ヒトをまるまるクローニングすることは、現時点では技術的にも倫理的にも問題があるし、将来、技術的問題が解決されたとしても倫理的問題が残るからである。また、ヒトをまるまるクローニングできなくなった場合、一体何処にその技術を使えばよいのか。それが、私の二つ目の考えである。

 ヒトに対するクローニングには倫理的な問題があるとしたが、一体どのような問題があるだろうか。

 先に述べた寿命が短い、というのも一つの問題の他に、指紋もが意見も全く一緒の人間が何人もいると、社会制度上大変なことになってしまう。また、優秀な人間のクローンを沢山作り、優秀な人間だけの軍隊を作る、その分野に秀でた人物のクローンを作る、といった人道上許されないことが怒る可能性がある。

 また、クローンには「自分と姿・形が全く同じ人間」「自分と全て同じ」というイメージが一般にあるが、仮にクローンを作る場合、核移植した細胞が仮親の支給に着床し、妊娠・出産することが必要であるため、現在の自分の姿とはギャップが生じるし、記憶まで引き継がれるわけではない。人間の容姿も性格も周囲の環境に左右されるものであるため、結局、クローンとは言えオリジナルと告示する点は髪・肌・瞳の色、耳垢の様子、まぶたの一重・二重、直毛・縮毛、あざなど、遺伝的に継承する部分だけである。しかし、同時期に異なった仮親の元で出産されたクローンは、時間的ギャップがないし、技術が進歩して人工的に作れるようになってしまったら、同じ顔の人間を大量生産することも可能になる。

 そのためであるかは定かではないが、現在、日本においてはクローン技術規制法があり、ヒトに関するクローン技術は規制されているし、世界各国でもヒトクローンを禁止する枠組みが出来つつある。つまり、ヒトへのクローン技術転用の道は閉ざされていると言ってもいいだろう。但し、このような禁止措置はES細胞などの生命科学発展の生涯となる可能性もある。そうした上で、私が考えるのは、部分だけ培養することは不可能なのだろうか、と言うことである。身体全体全く同じクローニングをすることは、倫理的な問題から規制しておくべきであるとは思うが、クローン技術全てを禁止しては生命科学発展の妨げにしかならないだろう。だが、部分だけのクローニングーーそれが本当に可能であるかはこの先の技術の進歩次第であるが、昨今の生命科学の発展は目覚ましい物があるので、ここは可能であるとして話を進めていくーー可能になれば、いたずらに生命を生み出すこともなくなり、クローンを作らずとも拒絶反応のない移植が行えるようになる。その点で、部分クローニングは倫理的にも問題なく行うことができるだろう。

 つまり、私はクローン技術を応用しての人工臓器生成が発達し、自家移植が盛んになると考えている。何故なら、全く同じ存在を人工的に作り出してしまうヒト全体のクローニングは倫理的に問題があるからだ。その倫理的な問題点がある限り、ヒトにはクローン技術を使われることはないだろう。(高1)

 

 

 

 科学技術が今ものすごい勢いで発達している。科学技術という言葉がよく使われるが、わからない人の為に説明しておく。科学技術とは、科学で得られた知識を応用し、人間生活に役立てる手段である。例えば地球から出てくる石油も発見自体が科学技術ではなく、石油からガソリンや化学繊維を作り出し、燃料や衣服に使うという応用が科学技術である。さっきも言ったが、この科学の応用がここ数年すごい早さで発達してきた。資料一を見ても、ここ数年でパソコンや携帯電話の発達し、それらの普及率もぐんと伸びた。このように科学技術は社会に「大きな」影響をもたらした。その影響は一見いいことばかりあるように見えるかもしれないが、実はすごい悪影響もあったりする。科学技術は私達の生活を変えてしまうだけでなく、私達人間自身も変えてしまった。

 まず科学技術が私達にもたらした最初の影響は女性の社会進出である。昔の人間達がしてきた労働のほとんどが重労働で、男性達がそういった仕事をやってきた。しかし科学技術が進むにつれ、機械があらゆる場面で使われるようになり、男性に比べて力のなかった女性も仕事を持つようになる。そして資料2を見るとこの二、三十年で女性の未婚率が極端に上がってきているのが分かる。仕事を持つようになった女性達は、自分の仕事を大切にしてしまうせいか、結婚への関心も薄れてきてしまった。結婚、男性と女性が結ばれるという慣わしは人間だけでなく他の生物にも見られることで、それは生き物にとってすごく大事なイベントでもある。しかし科学技術の発達によって、仕事を得るのと引き換えに、女性達はすべて生き物に見られる大事なイベントを切り捨ててしまったのである。

 次に挙げられるのが「金銭への執着心」である。お金というものは、もともと人間が作り出した概念である。昔は何かの物質に価値を付ける為に作り出された「おまけ」にすぎなかったが、科学技術によって「物」が増えすぎてしまった現代においてお金の存在は必要不可欠になってしまい、人間はそれに捕らわれすぎている。 だから銀行強盗などの金銭目的の犯罪が増えてきた。またライブドアの堀江容疑者の「人の心はお金で変えられる」という言葉も決して嘘だとは言えなくなってきた。

 そして最後に私達の「命に関する価値観」が変わってきていることを指摘したい。今、医療の世界ではクローン技術が注目されている。クローン技術とは同じ遺伝子情報を持つ個体を陣に人為的に作り上げる技術のことである。この技術を使えば、臓器移植もすごく簡単に行える。しかしクローン技術で生み出された臓器も意思をもっている生き物なのである。しかし人間が自分の好き勝手に生命の操作をしてしまうのはあきらかに行き過ぎている。

 このように科学技術の発展によって、人間はその内面から変わってきている。これは大したこととは思えないかもしれない。しかしこのままいくと、私達人間が「人間」と呼ばれない時がくるかもしれない。私達人間は目先の楽にとらわれず、遠い昔と未来のことも考えて、これからも生きていくべきである。(高1)

 

 

 人類の文化発展・向上を主な目的として人類によって住みやすい環境を作るため、科学技術は常に時代の変遷と共に進化してきた。人間により生み出された科学とそれにより得た知識で、より住みやすい環境を作ろうとする技術を科学技術と呼ぶ。常に科学者達はいかに人間の生活をより快適に便利にするかを考え、次々と新たな技術を世に送り出してきた。

 エネルギー源の使い道、動物を使った医療発達、リサイクル技術、遺伝子組み換え知識等、様々な例が挙げられるが、そんな中でエネルギーの使い道や消費の歴史は著しい変化を辿った。化石燃料や炭酸ガス等の昔から使われているエネルギーは今だに使われてはいるが、徐々にクリーンな自然エネルギーの開発が進んできている。太陽の光エネルギーにより、太陽電池を使う太陽発電システム、風の強さに依存される風力発電、雨水、排水の再利用による水力発電システムや自然光を有効に利用する昼光利用システム他の新たな自然に優しい科学技術が近年表れてきて、どんどん進化してきている。

 今になってようやく自然エネルギーの大切さが明らかになってきたが、過去に、そして今も尚使われているエネルギーは地球全体に大きな影響を及ぼした。炭酸ガスによる地球温暖化、酸性雨による森林・湖沼の被害や、土地や水や海の汚染、砂漠化などの環境破壊が進んでしまっている。人類が誕生してからおよそ四百万年の内、二百年という地球の歴史から見ればあまりにも少ない時間で、人類は地球の環境を少しずつ破壊してきた。そしてその被害の重大さにも気付かず、エネルギー消費量はこの五十年でおよそ四倍にも膨らんでしまった。

 このように科学技術はクリーンエネルギーなどの新たな技術を生み出し、人間の生活に大きなプラスを与えてきた。同時に環境破壊というマイナス面も持っている。そんな人類の住みかを危うくしてしまいがちの科学技術は、将来人類を幸せに導いてくれるのだろうか。

 過去の科学技術が起こしたマイナス影響を自然の再生の力だけに頼るのは難しい。地球の環境破壊をこれ以上広めないためにも、新たな自然に優しい科学技術で汚れてしまった部分の再生を行うためにも、まだ科学技術は必要だと私は考える。よって、自然界と共に生きる叡智を目指した方針を出せるなら、科学技術は人間を幸せに導いてくれるはずだ。

 私がこのように考えるには様々な理由がある。まず過去、そして現在の科学技術のマイナス面について指摘したい。今までの科学技術は主に、どのようにしたら人間の生活を快適にできるかに焦点をおいていた。よって、車などの移動手段や家電製品等が作られた。しかし、このような物は自然のエネルギー源の残量や地球の未来を深く考えなかったため、その結果今のような環境被害が増幅してしまった。そして人類にとっての最大の危機は、こうしたエネルギー源が現在十分にあっても、絶対に無制限ではないという事実だ。このような技術は我々の世界に大きく貢献してきたが、同時に我々の住む世界を危うい状況に追い込んでしまったのが現実だ。科学技術には人類の文化発展・人類の幸せに繋がるという立派な表向きの意味と目的があるが、裏を返せば人間の欲の表れである。人類の住みやすい・便利な世界を作るという目的は、人間の欲が生み出した理想にすぎない。このような考えを持ち続けたため、科学がもたらした代償はあまりにも大きすぎた。先に挙げたオゾン破壊、森林伐採などの現象は全て、過去の科学技術の住み重ねの結果である。

 さらに人類は本来の人間らしさを科学技術により失ってきた。便利な世の中が出来ていくと共に、動く事が少なくなった我々の日常生活は子ども達に反映している。現在、子ども達の体力減少が大きな問題になっている。楽になった移動手段やテレビゲームの普及により、子ども達は家にこもりがちになってしまい、体力が衰えてきた。これでは日本の未来が危ないと評論家達も不安を隠せないでいる。

 このように環境破壊、人間らしさの減少、体力の衰えなどのマイナス面を科学技術は我々にもたらした。しかしながら、マイナス点に気付き始めた今、水・風・太陽などのエネルギー源の害のない技術も表れてきている。そしてようやく科学技術の使い道や考え方が変わってきている。もっと科学が発達して新たな技術が生まれれば、環境破壊も少なくなり、いずれは自然を元のように美しい姿に戻す事の出来る科学技術も生まれるかもしれない。人間の欲だけを満たす科学技術はほんの一時の幸せを与え、長い目でみればそれはいずれ人類の不幸へと繋がる。しかしすべての生き物にとって住みやすい世界を作るという目的のために科学技術を生かす事が出来れば、それは過去の過ちをも返上し、豊かな世界を築くことができる。欲のためか、皆のためか、どちらもいずれは人間たちの決断にかかっている。

 科学技術は進歩するにつれ、マイナスの面だけでなくプラスの面も持ち合わせてきた。しかし更なる科学技術によって、いつかきっと過去のマイナスを今後の新しいプラスでプラスマイナスゼロにし、人間が生まれる前のような幸せな世界に戻せるかもしれない。度を越した、又、目的を失った科学技術は人間らしさを忘れさせてしまい、欲の塊になってしまうが、自然と共に生きる叡智を目指し、正しい道に進めば、人類は科学技術と自然界と共に生きていけるはずだ。(高2)

 

バイリンガル

 生活文・随筆

 「おはよう」

 「おはよう。 hey, did you hear the song?」

 「えっ どれ?」

 「ほら昨日話したやつ。」

 「oh-yeah! noo…..まだ。」

 これが日本語と英語を話せるという特権を持ったバイリンガルな私たちの日常会話だ。こんな感じに両国の言葉を交互に使うなんて、純日本人、または純米国人にとってはありえないだろうが、このような会話を私たちはいかにも「普通」のように交わしている。

 私は両親二人共が日本人だが、アメリカで生まれたため、アメリカ国籍を持つ、いわゆる日系二世だ。私や補習校に通う友達はほとんどはバイリンガルで、そのため文頭で紹介したようなバイリンガルならではの特有の会話やそれに基づく問題、状況によく出くわす。

 例えば現地校で英語を話す友達と会話する時に、時々日本語では分かるのに英語では言葉が出てこない時がある。これは逆に日本人の友達と話す時も同様に起こる。そんな時は、分かる範囲内でその言葉を説明することになる。また日本の文化ではあるのに、アメリカにはなかったり、アメリカの文化にはあるのに日本ではありえない事を説明したり、使い分けたりするのが大変な時もある。

生活習慣の違いでのトラブルもある。アメリカのファースト・フードのお店などでは、食後、食べ物も飲み物もすべて同時に捨てる。しかし日本に一時帰国をした時、私はその事が日本では違うということをうっかり忘れてしまい、飲み物・氷、その他、分別して捨てなければいけないところを、思いっきり食べ残しのポテトと共に捨ててしまった経験がある。日本ではゴミを分別して捨てる習慣があるのを忘れ、よく燃えるゴミと燃えないゴミを同じ場所に捨ててしまう。

言葉のトラブルもある。以前、英語をそのまま日本人の発音で使ってしまい困ってしまったことがある。それはロミオとジュリエットの映画の話をした時に起こった。母から、この作品でジュリエット役を演じたオリビア・ハッセイという子は、すごくジュリエット役が似合っていたと聞いていたので、米国人の友達とその話をしている時、私は「Olivia the 8th」と役者の事を呼んでしまった。ハッセイなのだからthe 8th とわざわざ訳して言ったつもりが仇となった。友達に誰の話をしているのか?聞かれ、自信満々に「えぇ?ジュリエットだよ」と言いながらビデオのカバーをひっくり返し、裏側に書かれている役者名を見せようとした。が、そこに「Olivia Hussey(ハッセィ)」と書いてあるのを見て、「あ、またやった!」と自分の間違いに気付いたのだった。日本人が「ハッセィー」を発音する時、「ハッセイ」になるのに気付かず、私はてっきり母が「オリビア八世」と言っているのだと勘違いしてしまったのだ。こんな感じに私は日本語でニュースを聞いたり、アメリカの言葉を聞いたりすると、その発音のまま言ってしまうケースが少なくない。

このように、私たちバイリンガルは「二ヶ国語話せるなんてスゴイ」と言われがちだが、生活面では結構おろかな間違いを繰り返しているのだ。しかし、完璧に両国の言葉・文化を把握しない限り、間違いを起こす度に新しい事を学んでいっているとも言える。バイリンガルだからこそ、普通の人より多くのミスを起こしがちだが、そのたびに両国の文化やその素晴らしさを改めて再認識する事ができるという特権を持っているのだ。(高2)  

 

 

  説明文

 『バイリンガル ― Bilingual ―』

 一 バイリンガルとは  

 バイリンガルとは、二ヶ国語が堪能である事。また、その人を指す。バイリンガルは理論的には、二重バイリンガル(両言語とも母語話者と同じ能力を持つ)、平衡バイリンガル(両言語の能力の差はないが、いずれも母語話者の能力には及ばない)と、偏重バイリンガル(いずれかの能力は母語話者と同じだが、もう一方の能力は母語話者に比べて劣る)の三つに分けられる。母語話者の能力と同じというのは、どの場合においても「年齢相応」の読み書きの能力であるという意味である。

 では、どのようにすればバイリンガルになれるのであろうか。

 

二 バイリンガル教育  

 バイリンガル教育とは主に三つに分けられる。「移行型バイリンガル教育」 (二ヶ国語取得の手段として、一時的母語教育を行う)、「維持型バイリンガル教育「 (第二言語の習得と同時に母語の伸張保持をはかる)、および「双方向型バイリンガル教育」 (両言語を教育言語として用いることによって、二つの言語能力をともに高める)である。生物学的にみて、思春期に当たる十三歳前後が言語中枢の発達の限界であり、それ以降新言語の獲得が困難になる。獲得が困難になるものとしてまず挙げられるのは「発音」である。それに加えて、自然な形での「文法」の獲得。また母語に関しては、四歳〜八歳の言語形成期前半に言葉そのものの基礎が出来るため、その時期の周囲の「話かけ」や「話し合い」、「読み聞かせ」などが大切である。そのような環境を作るのは、第二、第三ヶ国語を教える時にも効果的である。  (高1)

 

 

読書感想文

  「私小説 from left to right」

 水村美苗の「私小説 from left to right」には、二十年間アメリカで過ごした自分の体験と、日本への恋しさ、自分の居場所についての考えが書かれている。美苗さんは十二歳の時に渡米し、日本へ帰るかどうか迷っているうちに、アメリカに十五年もいてしまうことになる。現在の日本に違和感を抱きながら、自分の居場所がどこにあるのかさえ分からなくなる。同じような境遇の姉と電話をし、日常的な話から悩みを話しながら、日本に帰ることを決心する。

 この小説を読んで、たくさん共感できるところがあった。美苗さんは「アメリカには自分の居場所はない、大好きな日本に帰りたい」と信じていた。この気持ちがよくわかるが、私は美苗さんとは反対だと思う。毎年日本に一時帰国するたび、アメリカ生まれでアメリカ育ちのせいか、やっぱり自分にはアメリカの方が合っている気がする。もちろん日本は大好きだが、やっぱり「ここに自分はいるべきではない」と感じるのはかなりみじめな気持ちである。美苗さんの小説を読み、自分と同じ状況にいる人がいる、と知った時、少しホッとした。

 もう1つ共感できたところは、小説の初めのほうで美苗さんが、自分の頭の中にある日本のイメージのことを書いている部分だ。私と同じで、日本を豊かで素敵な所として頭の中で描いているが、実際帰ってみたら「貧しい」光景しかみえず、ギャップを感じたことがある。

 また奈苗と美苗の生活習慣にも共感できた。アメリカに長い間いて日本に帰ったら、マナーや生活習慣が違うことを奈苗と美苗みたいに改めて実感した。この違いを感じたとき初めて、自分は日本への違和感を覚えた。

 書き方も横書きと英語と日本語交じりの形式で、なにもかも面白くて共感できることたくさんの小説だった。(高2)

   

創作

 

「鉢植えさんと話してるの。」

え、と顔をしかめた自分に彼女は屈託のない笑顔を向けて言った。

「だって、植物も話してあげたり、音楽を聴かせてあげたりすると喜ぶ、って言うでしょう?」と。

 確かに、そういう話も聞いたことがある。しかも、先程から見ている彼女の様子は、どう見たって話を聴かせてる″ではなく、会話≠サのものだった。一体どうやって、会話≠オているのだろうか。そもそも植物に、会話≠ネんてできるのだろうか。

「ちゃんと植物にだって意思はあるし、何となくだけど何を言ってるのかはわかるもの。」

考えていたことが顔に出ていたらしい。それにしても初耳だった。植物に意思があるだなんて。けれど、もし、植物に意思があるとしたら、大概の言語を操ることのできる彼女のことだから、、会話≠ュらいできてもおかしくはないだろう。例え、それが、植物語≠ナあろうと。

 ふと、そんなことを考えていると、突如として歌声が聞こえてきた。自分の知る言語ではないから、何語かは分からないのだけど。

 とにかく、その歌声は高すぎず低すぎず、耳に心地よくて、聞いているうちにうとうととまどんでゆく。こんな歌声なら植物も育つのだろうな、などと考えながら。(高1)  

 

小論文  

 今、日本でバイリンガル教育が増えてきている。しかし、日本において「バイリンガルである」ということに対して、こだわりを持つ必要があるのだろうか。

 私は日本において「バイリンガルである」ということに対して賛成する。なぜなら、バイリンガル教育を受けた人々は、将来に持つことができる仕事の範囲が広がる。また多言語でコミュニケーションを図ることによって、より多くの歴史・文化などを知る事ができるようになる。このような経験もまた、将来に繋がると私は考える。 

 今、日本では少子化が問題となっており、労働者の数が減り続けている。しかし、日本はこれからも進歩していかなければならないので、国外からの労働者を受け入れる必要も出てくる。現に、今日本には多くの外国人労働者が入ってきている。

 この様な、外国人が大勢入国してくる中で、「バイリンガルである」という能力を持っているということが、とても大切になってくるのではないか、と私は考える。(高2)  

 

平成16年度 

日本の英語教育

 最近日本の公立学校では英語の授業を行っている学校が五割を超えた。果たして、小学校から英語教育を取り入れることは良いことなのだろうか。

 確かに、英語教育を始めることで他の教科が疎かになってしまう。しかし、国際的に活躍する人も増え、世界と深く付き合うようになってきている今では、英語を身につけることは重要になってきている。

 近年、学習過程において国語、算数と並んで世界共通語である英語も主要教科とみなされるようになってきた。事実、受験科目にしたり、リスニングの配点を高くする学校も増えてきている。

 また、日本人の英語は、文法はしっかりしていても世界には通用しないとよく言われる。実際私も見てきたように、中学校から学んでいるにも関わらず、他国の人と接する時、英語が聞き取れなかったり、聞き取ってもらえなかったりして、困ってしまう場合が多い。英文法は中学から始めても身につくが、幼い頃から始めなくては発音は身につかない。さらに、言語が定着し始める時期から慣れることで感覚的に英語が聞き取れるようになるのだ。

 今までは文法中心の英語教育でも特に問題はなかった。しかし、国際化が進み、日本だけではなく世界の一員として生きる今の私達にとって、実際に聞いたり話したりできる「世界に通用する英語」が必要ではないだろうか。そこで私は、小学校から英語教育を取り入れることは良いことだと考える。(匿名希望)

 

 

 最近ではニュース、新聞記事、インターネットのサイトなどで小学校での英語教育についてよく聞いたり、読んだりする。

 この頃の小学生は、部活や塾で忙しい。なぜ塾で忙しいかと言うと、自分の母国語や算数、他の科目でのサポートが必要だからだ。では何故自分の母国語のバックアップのために塾に通う忙しい子ども達に英語の教育を付け足す必要があるのか。英語教育は、そんなにも必要なものなのか。

 私は必要だと考える。それは、第一、英語は世界の共通語だからだ。つまりその共通語を知るたびに、沢山の将来のための扉が、日本の子ども達に「Welcome」といって開いてくれる。沢山の将来の機会があるのは、とても素晴らしい事だ。小さくて狭い檻の中にいるよりも、自由に歩き回れる野原にいる方が良いという考えと同じようだ。そして、英語を知ることによって、日本だけにではなく、世界にも興味が持てる。そのような興味を持つだけで、日本の将来は良い方に変わると私は思う。

 第二の理由は、小学生から始めると、人間の脳は若い時はとても柔らかく、物事を吸収するのが早いから、脳に負担がなくてとても簡単だからだ。人間の脳は年を取るにつれて、硬くなり始める。だから吸収の早い小学生に英語教育をさせる事は、小学生にとってはとても良い機会だ。よく「日本人が話す英語は通じない」と言われる。どんなにきれいでパーフェクトな文法でも、下手な発音で話したら、英語の上手な外国人でも聞き取ることはとても難しい。だから、他の人にも通じる英語を話すためには、吸収しやすい小学生から始めた方が、日本人達の発音のためにも良いと思う。

 つまり小学校の英語教育は、日本の将来にも良いし、年齢的にもあんまり負担にならないし、英語を知るだけで子ども達に開く扉の数が多くなる。だから小学校の英語教育は必要だと私は考える。(匿名希望)

   

 

 今では、日本の公立小学校の半分以上が英語教育を始めた。果たして、小学校での英語教育は必要なのだろうか。

 小学生のうちに英語に触れるのは確かに良いことだ。しかし、マイナス面として挙げられることの方が多い。

 まず、言葉を操るのには語学に対するセンスが要求される。センスが無い人はセンスが有る人にどんどん差を付けられ、いじめの対象にもなりうる。いわゆる「落ちこぼれ」が現れる恐れもある。どうしても英語を習いたいのであれば、英会話教室に行って習えば済むはずだ。

 今では、「ゆとり教育」が文部科学省の方針で行われていて、土曜日の授業時間がなくなってしまった上に、英語教育のために授業時間を使ってしまっては、主要四教科を習う時間が減り、基礎が疎かになる恐れがある。事実、日本の学力は近年明らかに低下している。その原因としては、小学校できちんと勉強の基本ができていないことが挙げられる。英語教育を実施することで、主要四教科の授業時間が減ることは避けられず、学力低下につながるであろうことは充分に予測できたはずなのに、きちんとした対策も立てずに結果的には学力低下に繋がってしまったことは、とても遺憾なことである。小学校は本来、主要四教科を教えるための場所である。中学校、高等学校に進んだら、勉強はもっと難しくなるのに、足し算、引き算、掛け算、割り算などといった基本ができていないと困るのだ。主要四教科を疎かにしてまで、英語教育をする必要はないはずだ。

 以上述べたように、小学校での英語教育は主要四教科が疎かになるため、必要ではないと考える。(匿名希望)

 

 

 私は藤原正彦氏の意見、「英語教育の重視が日本人の教養をさらに低下させるのは間違いない」について考えてみたい。藤原氏は、我々が英語教育について四つの点に誤解をしていると訴えている。

 彼による一つ目の誤解は、「英語がうまければ、世界から理解され信頼される」。その点については、私達は誤解をしていると言ってもいいだろう。しかし下手な英語を聞くよりは、上手な英語を聞く方がよい。何故ならば、上手な英語で話した方が、相手にとっても理解がしやすいし、正しく伝わるからだ。どんなに文法や表現力が発達していても、発音が下手な英語だったらマイナスのイメージを受けることもあるだろう。

 二つ目の誤解は、「英語がうまければ、経済が発展するだろう」。この点に対しても、私も藤原氏に賛成し、これも誤解だと考える。何故ならば、言語は経済に対して、ただ一つの道具にすぎないからだ。経済の世界では「言語」はコミュニケーションのためにしか使われておらず、ただそれだけである。だから「英語がうまければ経済が発展する」というのは藤原氏が言う通りに我々の単なる誤解だ。

 三つ目に、藤原氏は我々が「誰にでも英語はものにできる」という点を誤解していると述べているが、私はそれに反対だ。私は皆「やりたい!」「できる!」そういう意思さえあれば、英語は誰にだってできると思う。そして幼い頃から習っていれば、嫌でもものにできると感じる。日本人は最困難にランクされている日本語を使える脳があるのだから、国際共通語の英語もできるはずだ。私はここのポイントでは藤原氏は勘違いしていると思う。「誰でも英語を簡単に出来る」というのは甘い考えだけれども、「誰でも出来る」というのは現実的な考えである。

 最後に藤原氏は、日本のことをこう語っている。「日本は英語を全く知らなくても何不自由なく暮らせる国である」。私はこの意見にも反対する。何故ならば、この頃の日本は国際的になり、多くの外国人達が旅行や仕事のために来ている。そうすると、日本語だけしか知らない日本人達とコミュニケーションするのが難しい。それに日本では人口的に若い人の数が少なくなってきている。そのために、多くの外国労働者達が入ってきてもおかしくない。だから今現在そしてこれからの日本は、日本語と英語を知っておいた方がいいという国になっている。

 私は藤原氏の意見に考えさせてもらい、彼の意見に賛成するポイントもあるけれど、同時に反対する意見もある。そして私なりには、日本人に幼い頃から英語教育を始める事は非常に良い事だと考える。(匿名希望)

 

   

 理学博士、お茶の水大学教授である藤原正彦さんは、英語教育の重視はよくないと言っている。本当にそうなのだろうか。

 確かに藤原さんの意見に共感する人も多いだろう。しかし、私は次の点において彼の意見は矛盾していると考える。

 まず、英語の向上によってコミュニケーションが上手くなっても、話す内容が豊かになるわけではないと彼は言っているが、そうは思えない。むしろ、英語を学び、国際的教養を高めることで内容や人格が一層高まるのではないだろうか。さらには、数学をやっていれば人格がよくなるわけではない。なぜ他の教科には触れずに、英語教育だけこのように異を唱えるのか私にはわからない。ただ無理矢理理由を作っただけではないだろうか。

 第二に、日本文化を大切にするために英語教育が邪魔であるという考えも納得がいかない。日本語さえできていれば日本人としての誇りが持てると思っているのだろうか。むしろ私自身外国に来て、日本についてよく考え、知る事ができたように、ただずっと「日本」というものの中にいるのではなく、違う視点から日本を見ることによって、より多く自国のことを学べるだろう。

 第三に、日本では日本語が話せればよいと彼はいっている。確かに今はそうなのかもしれない。しかし、少子化が進み、多数の外国人がやってくるであろう近い将来では、今から英語教育が必要なのだ。

 第四に、藤原さんは英語ができても経済の発展には結びつかないと言っている。実際彼が言うように、英語圏の国でも発展していないところもあるように、英語が話せればいいわけではないし、英語が話せるわけではない日本が発展しているのも事実である。しかし、今や車産業で韓国が迫ってきているように、世界の他の国々が発展を続ける中、日本も取り残されないようにしなければならない。日本はせっかく発展するだけの力があるのだから、その力を十二分に発揮し、さらなる発展に繋げていくべきではないだろうか。そのためには英語が話せなければ話にならない。

 第五に、彼は、英語は日本人にとって本質的に難しいから英語教育に力を入れるのは無意味だと言っている。確かに日本人には本質的に英語を習得することは簡単だとは言えない。しかし、だからこそ教育に力を入れるべきではないだろうか。今のように中学校から英語教育を始めていては、効率が低く、無駄な時間を過ごしてしまう。その教育システムを変えれば、無駄になっていた時間が有意義なものとなるはずだ。

 以上の五点で私は、藤原正彦さんのいう「英語教育の重視はよくない」という意見は間違っていると思う。(匿名希望)

 

安楽死

 安楽死がオランダやベルギーで合法化され、安楽死という問題が世界中で注目され始めている。果たして安楽死は合法化すべきなのだろうか。

 結論から言うと、私は安楽死の合法化に賛成だ。一つ目の理由は、病気が治る見込みがなく、もう死ぬのが分かっているのに、治療や病気からの苦痛に耐えてまで生きていかなければいけないというのはおかしいことである。苦痛を味わいながら死ぬくらいなら、苦痛を味わわなくて済む安楽死という方法を選んでもいいのではないかと思う。

 もう1つの理由としては、死にたいときに死ねる、という点が挙げられる。耐えることのできない苦痛を味わった時にいつでも死ねることで、苦しむまでの時間を精一杯生きていけるし、苦しまなくても済むんだといった安心感を患者は持つ事ができる。

 それでは、どのような法律を作るべきなのだろうか。ベルギーのように「耐え難い苦痛があるから」といって安楽死をさせてしまっては、治らない病気でもない人が精神的苦痛を理由に死んでいくといったことが起きる可能性がある。それではただ自殺を助けているだけで、安楽死とは言えないと思う。安楽死は助かる見込みのない病人のみに対して行うべきであり、ただ死にたいだけの一心で安楽死するべきではないはずだ。よって、安楽死の条件としては、オレゴン州の法律のように余命六ヶ月以内で耐え難い苦痛があるなどといったことを含ませるべきだ。

 安楽死を合法化するのはとても良いことだが、その条件をよく考え、耐え難い苦しみを味わっていて、もう助からないと分かっている人のみを対象とした法律を作るべきである。(匿名希望)

 

 

 今、世界で安楽死が合法化されているのはオランダ、ベルギー、そしてアメリカのオレゴン州である。ということは、安楽死が合法化されている場所は世界では極少数ということである。しかし、他の国でも合法化を願う人達がいる。果たして、安楽死は合法化されるべきなのであるろうか?

 確かに、人が自ら死を選ぶことを嫌う人もいる。そして、人は自然に死ぬべきだという意見もある。医者の中でも沢山の人達が「人を助けるために働いているので、人を死なせることはできない」と言っている。しかし、安楽死は合法化されるべきだと私は考える。

 人を殺すのは罪である。なぜ、人殺しをしてはいけないかというと、殺される本人が死にたくないから、苦しみたくないから、そして殺された本人の家族や友人が悲しむからと、自殺をする本人のためにならないからである。

 しかし、安楽死は殺人や自殺がだめな理由のどれにも当てはまらない。安楽死をする本人は安楽死で死ぬのが嫌なわけではないし、もう肉体的には普通の生活ができないので、死ぬのをやめても自分のためになるわけでもない。安楽死は、人が突然死ぬわけでもないし、自殺を違って、家族はその人が死ぬ時間、場所、死ぬ理由を知らされているので、殺人や自殺の時程の怒りや悲しみはない。このように、安楽死は殺人や自殺の時のような悪い影響がないので、法に反するものではないと私は思う。

 世界には安楽死に反対する人もいるが、私は以上挙げた理由により、安楽死は合法化されるべきだと考える。(匿名希望)

 

茶髪とピアス

 「茶髪・ピアス論争」に関して、B氏は茶髪・ピアスについて反対と言っているが、それは正しいのだろうか。私はB氏に賛成しない。

 彼は茶髪流行の底に、理解したフリをして甘やかす親とそれに甘える子の「節度のない関係」を感じている。しかし、親が子供の茶髪やピアスを認めたからといって、それが節度のない関係にあっているとは限らないと私は思う。日本以外のところでは、たかが髪の毛の色で大騒ぎしたりしない。自由を求める子供に少しの自由を与える親、そんな親子関係のどこが節度のない関係なのか。

 また、外見を変えても中身が変わるわけではない。私の知っている人で何人もの人が髪を染めてきたけれど、それが原因で中身が変わった人はあまり知らない。外見と中身はとても違うもので、その両方がその人の性格を表しているものだと思う。

 もう1つ私が疑問に思っているのは、なぜ経済的にも、精神的にも自立していない人間は茶髪やピアスをしてはいけないのかだ。経済的、または精神的に自立しているのと、茶髪やピアスをするのと、何が関係あるのかが分からない。ちゃんと社会人として自立してなければ茶髪やピアスはいけないという意見に私は納得できない。

 こういった様々な理由で、私はB氏に反対する。誰からも、何からも縛られない自由はあり得ないかもしれないけれど、茶髪やピアスのような自由は味わわせてもいいと思う。(匿名希望)

 

   

 A氏は茶髪、ピアス論争の中で「自由を与え、つきはなして、初めて子供は考えるのではないか」と述べている。

 しかし本当にそれは正しい事なのだろうか。私は自由を与える事により、子供は「大人はどんな事をしても何もしてこない」と考え、好き勝手に行動し始めるのではと考える。A氏は内面の意味をとらえず、現代の親同様、現象の側面だけを見ている。

 論文の中で出てきた茶髪女子高生と教師の問題だが、なぜ父親は教師を殴る前に考えないのだろう。確かに女子生徒の頭を押さえ込み、染め直した事はあまり良くは思わないが、まず校則を破ること事体がいけないのだ。生徒として校則を守ることは当たり前の事である。学校側も様々な理由と目的で校則を作っているはずだ。それなのに、校則を破ったにも関わらず、教師の説明を理解しようともせずに殴るとは、女子生徒とその親に問題があるのではないか。自分の娘が髪を染めることは校則破りだと知りながら許し、「人を殴ってはいけない」と教えるべき親が教師を殴る。とんでもない話だ。これでは、子供の見本であるはずの親が悪いことを教えている。

 もう1つ、A氏はアメリカの教育は日本の管理的教育とは違って良いと述べているが、私はそうとは思わない。子供がみな親の思う様に育つとは限らないのだ。私の経験から見ても、小さい頃から自由自由としつけられ、野放しにされているため、自己中心な人や礼儀を知らない人が多い。

 以上述べたように、私は自由を与えすぎることにより、逆効果になるのだと考える。もしもA氏の言う「自由」に育てられた子供が大人になり、子供を育てる立場になったら世の中はどうなってしまうのだろう。私が日本に帰る時、自分の国は「素晴らしい」と思える国であった欲しい。(匿名希望)

 

 

  最近、日本では髪の毛やピアスの有無により、討論が始まっている。課題文の中でB記者は、茶髪やピアスをつけていると、外の目から変な風に見える、つまり人は外見によると言っているが果たしてそうだろうか。

 確かにB記者の意見にも正しいところがある。それは校則がバカげているからと言って好き勝手させるべきでないという点だ。確かにそうだ。僕も校則が変だからと言って好き勝手するべきでないと思っている。しかしB記者の意見に反対する点もある。

 B記者は外見が悪ければ中身も悪くなる、と書いていたが、果たしてそうだろうか。日本にいた時に茶髪の友達がいた。その人の外見はとにかく悪そうだったが、中身は本当に優しい人だったのを今でも覚えている。そしてもう1つ例がある。それは僕がまだ中学生の頃の話だ。クラスメートの中に外見がとても真面目そうな人がいた(もちろんその人は茶髪ではない)。やはりその人は先生の間では評判が良かった。しかし同じクラスになってわかったことだが、その人はすごく性格が悪かった。例えば人にイジワルをしたり、人から物や金を借りた時に返さなかったり、人に金を貸す時は利子などを貸した人に言わずにつけたりしていた(今から思えば人に金の貸し借りをしていたのが間違いだったと思うが)。

 つまり今述べた例から分かるように、人は外見で判断できない。その点でB記者の意見は間違っていると僕は思う。(匿名希望)  

 

 

 現代の若者が茶髪やピアスをするのをA氏は賛成しているが、果たしてそれは本当に正しいのだろうか。今の日本は自由の国アメリカを見て、自由をいいものだと考え、「私達にも自由を」と求めすぎている。自由でも、その限度に気付いていない。間違った自由の意味を学んでしまって校則を守らない生徒の方が間違っていないか。

 まず、校則がばかげているからと言って好き勝手をしていいとは限らない。校則に不満があるのなら、話し合いや反対運動を始めればいい。現に千葉県で二年がかりの運動で服装の自由化を勝ち取った高校生だっているのだ。

そして「服装は社会にでれば一文の意味もない」と言うが、果たしてそうだろうか。面接でちゃんとスーツなどを着ないで受かる確率は低い。華やかな服装もすれば気持ちも明るくなり、何事にも気合いが入る人も多いはずだ。こうした服装に対する世間の目は今の時代も変わらない。だから教師も生徒の服装の乱れから授業が乱れないか心配しているのだ。

 自由と個性を大事に、外見で判断するなという人たちが、みんながしているから、と茶髪にするのはおかしい。「みんながしているから」というのは理由にならない。自由についてもそうだ。子どもに自由を与えすぎては、自由になりすぎてまわりが見えなくなる。その結果、自分の事ばかり考え、未来の目標や周りの小さな幸せにも気付かないまま成長してしまう。自由を与えるのも大切だが、与えすぎてもだめだ。

 校則を破るのは自由のではない。それは単なる違反だ。ある程度の自由があってこそ自立できるなら、与えすぎる自由は自立に繋がらない。(匿名希望)  

 

 

今、日本の学生たちの中で、髪を染めていることや、耳にピアスをする人が増えてきています。その中で、学校の教師らが校則を作り、そして生徒たちに「髪を染めるな」などのことを言っています。

 僕はA氏の記事を読んで、これは違うと思ったことがいくつかあります。A氏は子どもには自由を与えて育てろと言っていますが、自由ということに慣れてしまうと、少しでも辛いことが目の前に出てきた時に、その子どもはすぐ物事を諦めて楽な方へ走ってしまうと僕は思います。つまり校則などがないと、けじめがしっかり教育されないと思うからです。僕が通っていた日本の学校は校則などもしっかりとありました。校則に従わない人もいたけれど、ほとんどの人が校則を理解しているから、髪を染めたり、耳にピアスをしたりする人が出てこないんだと僕は思います。

僕は今アメリカに住んでいます。アメリカの学校は髪を染めるなどのことは、ほとんどなにも教師からは言われません。ですが、子どもに自由を与えているアメリカの学校でも、校則などに反発する人も多いと僕は思います。

僕は子どもたちに自由を与えることには賛成できません。学校の校則など、大人数で生活する中できまりというものはとても大切だと思います。だからきまりは守るべきだと僕は思います。(匿名希望)

 

 

平成15年度 

先進国と途上国

 現在、私たちの住むこの世界には、国内総生産の多い先進国と少ない発展途上国という国々がある。日本、アメリカ、ヨーロッパの国々などの先進国と発展途上にある国々の間では、双方利益を得るために経済的な依存関係が築かれているのだが、それにより、途上国が発展を遂げたかと言われれば、一概にそうだとは言えないだろう。そこで、このような依存関係を続けていて途上国は本当に発展できるのかどうか考えてみたい。

 先進国にとってのこの依存関係による利点は、まず人件費にある。国内で商品を生産するよりも、途上国で生産した方が人件費は安くつく。また、反対に途上国から見ても、この依存関係によって仕事に付け、割と安定した収入を得ることができる。その他、国交や貿易の発展、それぞれの国同士の文化的な交流などの利点も生まれてくるだろう。しかし、この関係には途上国の発展を妨げる重大な問題が出てきてしまう。

 ここで途上国のバナナ農園を例に挙げてみる。これらは消費者のもとにバナナが届くまでの過程の大部分を請け負っている。育成、収穫、そして選別の過程などが彼らの仕事であり、その後、運搬・輸出過程、輸入・熟成過程、出荷過程を得て、我々の口へ入るというわけだ。ところが、過程の大部分を請け負う農園は、全体の売り上げのわずか一割程度しか得られないというのが現状である。さらに、「地球が百人の村だったら」から分かるように、世界の全ての富のうち20人がたったの2%を分け合っている。このように、世界全体で考えればさらにひどい現状が見えてくる。これは、発展途上国を助けなければならないはずの先進国が、より多くの利益を得ようとしていることの粗末な結果だろう。

 先進国は色々なかたちで発展途上国に援助をしている。特に我々日本は経済的な援助では、そのトップにいると言えるだろう。しかし、実際はそれらの国々を利益を得るための道具にしているに過ぎない。我々は途上国の人たちの生活状態などをもっとよく知り、それらの国々と対等な関係を築く必要がある。そうでなければ途上国はいつまでも発展できないだろう。

(2年 福田秀治)

 

 現在世界中の各先進国が競うようにして途上国の発展、繁栄のために様々な手助けを行っている。特に私が現在住んでいるアメリカは積極的に技術や人員援助を送ったり、一般市民からお金を集めて寄付するなど、あらゆる形で途上国を援助している。また、他国が忌み嫌う移民も進んで受け入れている。だが、果たして先進国は心から途上国の発展、繁栄を願って技術やお金を提供しているのだろうか。

 私はどうも先進国がただ、途上国の発展、繁栄のためだけにお金や技術を援助しているとは思えないのである。確かに、先進国から与えられた技術やお金で途上国は少しずつではあるが経済的にも社会的にも環境は改善されてきている。しかし、技術やお金を先進国が一方的に与えるのは、あくまでも先進国の利益のためであり、「途上国の発展、繁栄のため」というのは自分達が社会的によく見られるための口実に過ぎない気がしてならない。なぜなら、もし本当に途上国の社会改善のためだけに援助を行っているのならば、汚い辛い仕事を途上国の人が全てやっているのだろう。また、日頃身の回りで使っている製品はどこ産か見て欲しい。ほどんどの物が途上国で作られた物ではないだろうか。先にも述べたように、本当に途上国の社会改善のつもりで援助をおこなっているのならば、道路工事の技術や製品を作るといった単純な技術ではなく、もっと高度でその国に定着しやすい技術や教育を提供するべきである。また、始めに上げた移民の件である、彼らが先進国に来てやっている仕事はどの様な仕事であろう。道路工事や芝刈りなど、誰もが嫌がる辛くて厳しい仕事ではないだろうか。もし、アメリカに移住してくる人がいなくなったら、誰が道路工事や芝刈りをするのだろう。ようするに先進国は安い給料で辛い仕事や製品を作ってくれる人々が欲しいのである。そして、そのために途上国にお金や技術を与え、アメリカのように移民を進んで受け入れるのである。

 このように利益の為だけに先進国が動いている限り、この先進国と途上国の関係はいつまでも続いていくであろう。自分の国の利益関係なしに、先進国が途上国のことを考えない限り、本当の意味での途上国の発展、繁栄はいつまでも望めないであろう。

(2年 M..T.)

 

 現在、地球の国々を見渡した時、その半分以上の国は発展途上国とみなされている。発展途上国とは、国事体が経済的に貧しく、また戦争などの地域問題を持ち、最新の技術やテクノロジーを取り入れることができずに発展が遅れている国々のことだ。今、世界の経済状況は「世界がもし100人の村だったら」という資料によると、6パーセントの人間が60パーセントの富を支配しているという状況にある。そのため途上国には、教育のなさ、食料の不十分などたくさんの問題が存在する。では、このまま先進国が富を独占して、貧しい途上国を放っておいていいのだろうか。

 まず、もしこのまま何も対策をとらずに途上国の問題を無視したとしたら、今のままの現状を続けられるだろうか。私はそうは思わない。先進国は、国の資源をほとんど使い果たしている。今のまま対策をとらずにいると、いつかは先進国も資源不足の危機に陥るだろう。それを防ぐため、先進国は途上国を助け、そこで新しい資源を得ることが両者にとって有効な道だ。  

先進国が途上国を助ける為にはたくさんの方法があるが、まず必要とするのは食料援助だ。空腹で倒れている人達は世界に数え切れないほどいる。次に医療器具や専門の人間を送り込み、衛生面を改善することが必要だ。医療面が発達すれば死亡率が下がり、国の発展の大きな一歩になる。他には経済発達のために資金援助をし、仕事を提供するなど、または国の技術を発達させるために教育面での援助など途上国を援助する術は多い。今はまず食料援助と衛生面改善のための医療援助から始め、国の人口を増やしていくことが大切だろう。これらの援助の方法は全て莫大な資金と労力を必要とするが、これは途上国にとって、また先進国にとっても重要で不可欠なことである。

私が挙げた支援の方法は全体のほんの一部にすぎない。国々が協力し合えば、もっと有効で効率のいい方法をたくさん見つけられるだろう。今はまだ先進国の中でも貧富の差が激しく現状は厳しいが、少しずつ問題を解決していけば、もちろん途上国の生活はよくなり、それによって先進国の生活も更によくなるだろう。そしてそれらは私達の理想「みんなが平和で快適な生活を送れる地球」へ近づくための大きな一歩ではないだろうか。

(2年 川端慧己)

 

 以前に私たちの身近にあるスーパーなどで売られているバナナは一体どこから来るのか、討議しました。選別過程、運搬・輸出過程、輸入・熟成過程、出荷過程は主に先進国が行っているのですが、一番初めで一番手のかかる育成、収穫過程は途上国が行っています。そういう国は資源豊富ですが、国内総生産(GDP)が低いため途上国と呼ばれています。途上国がどんな状況であるかは「世界がもし百人の村だったら」を読んで一目瞭然でした。世界には字が読めない人や栄養が充分でなく中には死にそうな人がたくさんいる事を知りました。そのような国々に先進国は資金援助をしたり、先進国で移民受け入れを行うことにより途上国の人たちが仕事に就けるという事があり、それによって全ての国ではないけれど、少しの国が助かっているという事実もあります。これが両者間の相互依存関係です。しかしこの依存関係は先進国によって人件費が安くすむ、途上国の人々が仕事に就ける、文化の交流や国交・貿易の発展などの良い点もありますが、それによって失業率が上がる、品質の問題などといった悪い点も出てきます。では先進国と途上国が今の関係をどのように結びつけたら、もっとよい結果が得られるのでしょうか。

 例えば身分の差・貧富の差などは途上国側の人々に対して人件費が必要以上に安すぎるというのがあるが、それともっと改善したら少しはなくなるのではないでしょうか。他にも、途上国側の教育が充分ではないという問題もあるが、先進国がもっと教育の場を設けたり、国からお金を出す製作をもっと活発化させることによって解決されていくのだと思います。

 途上国となっている国をこれ以上増やさないために、先進国の私たちがどのようにすればよい結果になるのか考えなくてはいけないと思います。そして今現在の両国の相互関係がどのような状況であるか、お互いにもっと知ることが一番大切なのではないでしょうか。

(3年 匿名希望)

性差別と夫婦別姓

 意識をしていなくても、身近で様々な性差別が行われている。法律上では男女平等とうたわれているが、実際は平等ではないと言える。世間的に見ると、男の方が権力が強く、生活していくのに有利だというイメージがある。果たして、このイメージを固定したまま次に世代へと伝えないようにするにはどうしたら良いだろうか。

 性差別の最大の問題は、子供の頃から男女は全く別々の人間であると考えざるを得ない環境で育っているということだ。学校の制服では女はスカート、男はズボンと決まっているし、女の野球部は無い。大人になると、仕事の募集人数や給料は明らかに男のほうが多いし、経済的な問題もあがってくる。結婚する場合も、当たり前のように女が男の姓に合わせるのが常識的だ。このままでは、生きていく上で女は不利な場合も多いし、「男は女に頼らない」というプライドを持っている男も多いので、男女どちらとも悩む点が増えてくるだろう。

 確かに、女は男に頼り、一人で生きていくには難しい時代だ。余程の事が無い限り、裁判沙汰にはならない。長年の歴史を変えようとするのには、面倒な問題を話し合い、解決していかなければならない。特別目立ったトラブルも少ないし、このままでもさほど支障は無いという人もいるだろう。しかし、性差別という許せない現状問題は解決すべきである。

 産まれてくる時、男女の能力は同じであるのに、作り上げられた環境により、能力の伸びる、伸びないの問題が出てくる。この作り上げられた環境を改善していくことが、真の男女平等への第一歩であろう。

(3年 J.K.)

 

 「性差別」という言葉をよく耳にする。男がスカートを履いてはいけない、という法律はないが実際履いていれば偏見の目で見てしまう。こんな小さな事でもその人にしてみれば立派な「性差別」である。この事に似たものとして「夫婦別姓」というものがある。「夫婦別姓」とは結婚する際に男女が違う名字を持つという事である。現在の日本では97%余りの夫婦が夫の側の姓を名乗り、妻が姓を変えている。日本の法律ではまだ夫婦別姓が認められていない。

 それでは日本は法律で夫婦別姓を認めるべきだろうか。私はこれに対して認めるべきだと思う。確かに夫婦で同じ名字の人達の方が多いが、中には夫婦別姓を望む人もいるだろう。例えば夫婦で共働きをしている場合、妻の方が結婚したために名字を変えたりすると、仕事の仲間同士で色々と不便な面がある。それに妻の方にも名字を選ぶ権利はある。それを否定するのは、それこそいわゆる「性差別」につながると思う。「性差別をしてはいけない」という事が法律で認められているのだから、同様に夫婦別姓も認めるべきである。「夫婦別姓」に反対している人達の意見として「一体感が薄れる」というのがあるが、私は夫婦別姓になったからといって必ずしも人間関係が薄れるわけではないし、夫婦同姓でも仲の悪い夫婦はたくさんいるだろう。

 誰にでも選ぶ権利があるのだから、名字を変えるか、変えないかを選ぶ権利もあるだろう。

(3年 Y.H.)

   

 性差別とは、性別が違うという理由により相手を卑下したり、態度を変えたりすることだ。性差別された時にどの様に対処すべきか。

 先日、某週刊誌の記事を読んでいると、某ミュージシャンの過去の話が載っていた。そこには次にように書いてあった。幼い時に、姉に頼んで女性用の下着を試着した。その心地が良く、欲しくなった。しかしバアヤに見つかり、少年時代には変態扱いされ続けた。現在は堂々と女装したりできる仕事に就けて良かったと載っている。確かに街中でオカマを見るとびっくりするが、世の中にオカマがもっと多ければ別に驚くことでも何でもない筈だ。もっと言えば、オカマ以外にもこれは言える。男性が女性用の下着を着用しようと、その逆でも結局は個人の自由ではないか。それでも納得できずに差別し続けたらヒトラーと同じである。常識に囚われていたら、何も変わらない。常識破りの人達がいた方が世の中も面白くなるのではないか。

 先程常識破りと書いたが、始めて髪の毛を伸ばした男性や、妙に男っぽくした女性などはその中の一人だ。こういったことが認識されていない時に実行するには、相当勇気が必要である。「女みたいなことをするな」や、「もっと女っぽくして欲しい」という人達の気持ちは分かる。しかし、周囲に何と言われようと、実際にすると決めるのは自分だ。自分の人生を決めるのも、常識破りに挑戦するのも自分だ。

 今まで書いた様に結局は個人の自由なのである。悪いことなどはない。自分の意志でやっているのだから。法律で男女差別は禁止されているが、性差別がなくなるとは考えにくい。性差別とは考えずに、自分の意志を貫けば、それでいいのではないか。

(3年 匿名希望)

臓器移植

 近代科学が発達し、人間の生活はより簡単で快適なものになってきた。医療技術も発達し、今では病んだ体の一部を他の人のそれと取りかえるという臓器移植も可能になっている。しかし、臓器移植はたくさんの問題を生んでおり、その是非をめぐってたくさんの討論が行われている。医学病院の教授を務める川喜田愛郎さんは移植に反対する人たちの一人だ。川喜田さんは、佐々木力さんとの対談で移植に反対する三つの理由を挙げている。

 一つの理由は、臓器の供給量の不足、そしてそれがやってはならない臓器売買につながるということ。川喜田さんは法外な手術代も一つの理由だと述べている。私はこれに賛成する。提供される臓器の数は限られていて、移植が必要だがドナーが現れなく困っている患者は多い。そして、それを知っている欲のある者は、経済的に貧しい国で臓器を安く買い、患者に高く売りつけるという違法的な臓器売買を始めるだろう。それに伴って手術代もさらに高くなり、手術を受けられない人が出てくる。臓器の提供量は増やすことができないし、また臓器売買も違法ではあるがそれを完全に止める方法はない。

 川喜田さんが挙げたもう一つの理由は、ドナーとレシピエント、そして彼らの家族をめぐる心理的問題だ。私はこれにも同意する。移植は提供者にも、臓器をもらう人にとってもすごく大きな問題だ。家族をめぐり問題が生じたりするだろう。また宗教的信念や道徳的考えにより移植を拒む者もいる。このように臓器移植にはいくつかのデメリットがある。

 最後の理由は、臓器移植は免疫系の働きを抑え込まない限りできないということ。その為、手術後も免疫抑制剤を使い続けなければならない。免疫を抑制するということは、一生感染におびやかされるということだ。川喜田さんは、そんな危険やさらなる病気と闘ってまで移植をする必要はないという。この意見には私は反対する。確かに免疫能力が下がるというのは大きなリスクだが、もし移植しか生きる方法がないのならば、移植を行うべきだ。多くの場合、本人もそれを望むだろう。リスクを負ってでも命は大切にし、助けるべきだ。

 以上のように、川喜田さんは臓器移植に反対していたが、私は移植を続けるべきだと思う。たくさんの問題を抱えているのは事実だが、これまで多くの命が移植によって救われてきた。そしてこれからも臓器移植はたくさんの命を救うだろう。

(2年 川端慧己)

 

 医学技術が発展した現在では、臓器移植までもが可能になった。しかし、臓器移植を行うに当たっては、拒絶反応や免疫力の低下といった医学的面での問題また、裏社会で臓器が売買されるのではないかといった倫理的面での問題が心配されている。この対談に登場する医師川喜田氏は臓器移植に賛成しておらず、反対論として三つの理由を挙げている。

 まず彼は、移植による免疫力の低下や癌の発生の頻度が高くなる可能性があると主張していた。この彼の意見に対して私はどうも合点がいかないのである。なぜなら、移植を受けるに当たって患者は全ての情報を医師から貰い受け、全てを承知の上で移植を選んでいるのだから。また、彼は臓器移植を自然的でないとも訴えているが、自然的でないと言ってしまえば、彼の行っている「医療」自体が自然に反するものになってしまうのではないだろうか。

 次に彼は移植に関わった当事者への心理的・人間的様々な問題を出しているが、前述したように、患者やその家族は医師から移植に当たっての説明や後々出てくるであろう問題点をもらい、話し合い、そしてそれらの問題をひっくるめた上で移植を承知しているのであるのだから、さっして反対するほどの事ではないと私は考える。

 そしてもう一つの理由として彼は裏社会で臓器売買が行われる心配があるためと語っている。これはもっともな意見である。実際臓器をめぐった事件が世界各国で起こっている。日本ではトイレに入ってきた子供を襲い、臓器を奪おうとした若者がいた。またロシアでは金に困った老婆が自らの孫を殺し、臓器を売ろうとした事件もあった。こういった事件が起きている以上、今後も臓器売買に関連した事件がいつ起こってもおかしくないのである。

 こうしてみてみると臓器移植とは色々厄介である。しかし徐々に川喜田氏の言う医療的面での問題を改善していきながら、裏社会で密かに行われている臓器売買を医療関係者と警察が協力し、法に基づいて取り締まってゆく事により、倫理的、社会的問題も改善されてゆくのではないだろうか。

(2年 匿名希望)

 

平成14年度 

外国人単純労働者

 日本では今、国際化が必要とされている。国際化するためには、外国との交流が最も必要である。例えば、日本の経済に不可欠な最先端産業、最重要産業へ外国人研究者や、技術者をもっと受け入れる。そうすることによって、日本の産業を外国の優秀な頭脳で活性化させることができるし、こういった外国人の受け入れは、真の国際化へとつながるのだ。では、日本で今問題になっている「外国人単純労働者」の受け入れは、日本の国際化につながるのだろうか。

 確かに、単純労働者を受け入れれば、日本が不足しがちな労働力を補う事ができる。更に、外国人労働者が増えれば、様々な国との文化交流が可能になり、日本を国際化させることができるかもしれない。しかし、外国人労働者を受け入れるという事は簡単ではない。

 外国人労働者の受け入れには、多々の問題があるのだ。例えば、自国の建設労働者の賃金低下、底辺労働者は外国人という差別の進行、専門技術・技能職への進出による自国労働者の失業、その他にも言語、住宅、教育、社会保障、職業訓練、宗教等権利の保障など多くの問題が出てくる。

 今、日本にはワールドカップの影響で、世界中の人々が滞在している。このような事は今までになかったため、その受け入れを行っている各地方では、店やホテルなどに来た外国人への対応に困ったりしている。まだまだ日本人には外国人はめずらしく、身近な存在ではない。このような状態で外国人単純労働者を受け入れても、問題に対する対策が間に合わないのではないだろうか。

 したがって、外国人単純労働者の受け入れは多くの問題を生み、直接には日本の国際化へはつながらないと私は考える。

(2年 敏鎌由佳)

 

 現在の日本人は外国人単純労働者の受け入れ方に問題があると思う。外国人に汚い仕事をさせて、自分達がきたなくない仕事をするのはとても人種差別的な行動だと思う。日本人は外国人に対する見方を考えなおすべきだ。

 僕は小学校2年生の始まりの頃、アメリカから父の仕事により日本に移ることになった。転入した日本の学校では、よく多くの人に外人と呼ばれ、さげすむような目で見られていた。自分が外人だという事実には逆らうことはできないが、そういうさげすむ様な目で見るのはよくないことだと思う。最近の日本人はもっと重要なことを忘れているのではないか。外人でもみんな同じ人間だということを忘れてしまったのではないか。自分の文化を大切にする文化相対主義もいいと思うが、文化とは別な面から見た普遍主義も価値があるのではないか。外人でも同じ人間なのだから、互いがいっしょうけんめいになれば心も通じ合い、理解し合えるのではないか。

 日本人はまず外国人に対する見方を考えなおすべきだ。そうして初めて意味のある「外国人労働者の受け入れ」が実現し、真の国際化が目指せるであろう。

(2年 加増恵太)

 

ワークシェアリング  

 日本は今、長引く不景気のおかげで失業率の増加が深刻な問題となっている。しかしオランダやドイツなどの多くの国々は、ワークシェアリングを導入することによって失業率を減らすことに成功している。ワークシェアリングは、勤務時間を縮め、その分を新規雇用に充てれば会社も残業代を払わずに済み、社員もリストラされずに自分の時間を持つことができる、とても画期的な制度だ。しかし、日本では半数を超える人々が関心を持っているのに、実施している、または実施予定のある企業は十パーセントにも満たないと、理想と現実の間に大きな差が生じてしまっている。では、日本でワークシェアリングを一般化させるにはどうすれあいいのだろうか。

 日本でワークシェアリングが一般化されない大きな理由として、給与体系の違いが挙げられる。欧米では職種で時給が決まり、それに労働時間をかけて給与を算定するので仕事を分けやすいが、日本では不完全な実力能力主義に加え、一度に複数の仕事を任されるので、給料の査定の問題から仕事を分けることが困難になっている。それに加え、一日の労働時間を減らすと打ち合わせや引継ぎなどでまとまって仕事ができないなどの問題があげられ、それらが理想と現実の差を広げる原因となっている。

 それでは生産性と効率性の向上にもっと目を向けてはどうか。近い将来、超高齢化を迎える日本。それに加え、子育てと仕事を両立する女性ももっと増えるだろう。ワークシェアリングは失業率を減らすだけでなく、有能でやる気のある高齢者や女性を雇うことができ、企業の生産性も高められることを忘れてはいけない。一日の労働時間を縮めるのが問題なら、労働日数を減らすのはどうだろうか。効率もあがり、雇用も増やせる。

 私はワークシェアリングは日本にとって役立つ政策だと思う。日本に会った形での実施を考えれば、もっと一般化されていくだろう。

(3年 深澤愛子)

 

 失業者が増えるなかで、雇用情勢が一層深刻化している。現状の日本の企業のうち、ワークシェアリングに関心を持っている企業は比較的多いが、実際に行っている企業はわずかだ。なぜなら、ワークシェアリングには時短により雇用を作り出すという利点がある一方、時短に伴って賃金が下がるという問題があるからである。そのようなデメリットがあるワークシェアリングはさらなる景気の悪循環を生むだけではないだろうか。

 ワークシェアリングについて、マスメディアが説明しているのは、「今まであなたは八時間働いていましたが、これからは他の人と分担して働いてもらいます。以後は四時間だけ働いてください。給料も半分になりますが、仕事も半分になります。残りの時間は他の人にやってもらいます。そうすれば、二人の人間を雇うことができます。」というものだ。確かに仕事は分け合っているが、これでは単なる「給料の分け合い」に思える。だいたい失業率が何故増大しているかというと、景気が悪いからであり、何故景気が悪いかというとバブルを放置し、さらにその後の始末も適当に先送りしてきたからだ。そんな中、ワークシェアリングによってサラリーマン世帯の収入がさらに下がることになると、それによって購買意欲がさらに下がってしまう。そして、それがそのまま商品の売れ行きに影響を与えてしまうのではないか。

 また、仕事にはワークシェアリングが可能な職種とそうでないものがある。工場などでのライン製造作業では可能だが、事務職や営業職などにワークシェアリングを導入すると、引継ぎや後継者の育成、事務処理や新しい人間関係を築く時間が必要な為、非効率なものになってしまうだろう。

 ワークシェアリングは万能でもなければ、雇用創出の切り札でもない。もし誤った形で利用してしまうと、さらなる景気の悪循環あるいは雇用危機につながるだろう。

   (2年 星野洋章)  

現代における「死」


 ある小学校でのアンケート結果である。「人は死んでも生き返ると思うか。」これに「はい」と答えた小学生が三人に一人という割合だった。なぜこのような結果が出たのか。

 まず考えられるのはロールプレイングゲームである。死んだら二度と生き返らないというロールプレイングゲームもあるが、ほとんどのロールプレイングゲームにおいて人は生き返る。有名なロールプレイングゲーム「ファイナルファンタジー」でも人は生き返る。ロールプレイングゲームのやり過ぎで、彼らはゲーム好きな現実から目を反らしているのであろうか。

 次に考えられるのはホラーゲームである。中には自分が死ぬと「you died(お前死んだ)」と画面に表れるものもある。こういったゲームは本当に血が吹っ飛んだり、人体がちぎれたりするシーンも入っている。パッケージには「このゲームには暴力シーンやグロテスクな表現が含まれています」と書かれているが、こういったゲームを自粛する人はほとんどいない。むしろこういった刺激を求めて買う人が多いのが現状だと思う。

 こういった原因によってゲームをやり過ぎる低学年の子供は、架空と現実の違いが分からなくなり、死に対する考え方が甘くなっている。兄弟など家族がこういったゲームをしていると更に影響を受けると思われる。最悪の場合、実際に殺人などの犯罪を犯し、「ゲームのキャラクターに憧れて真似をしてみたかった。」という供述をされたら、被害者はどの様な思いをするのか。事実これに似た様な事件は既に起きており、少年法の法律改訂にまで発展した。こういったゲームの犯した罪は大きい。これも現代犯罪の一つの在り方である。

 暴力的なゲームのやり過ぎで「人は生き返る」と考えた小学生が多いと私は考える。夢があっても良いとは思うが、現実とは遠く、厳しいことを親も子供に伝えるべきである。

(匿名希望)

 

 アメリカのオレゴン州では、余命半年以下と二人以上の医師に判断された患者は、希望者のみ自らの命をたつことが法律上認められている。オランダでも同じく助かる見込みのない病人が安楽死を選択することが許されている。アンケートの結果を見てもわかるように、安楽死を望む人は非常に多い。しかしながら、大多数の国はまだ安楽死を法的に認めようとしていないのである。ここで問題になるのは、安楽死が本当に道徳的に正しい死に方かどうかである。

 安楽死に反対する側は、生き抜く努力をやめることにより命の重さが軽くなり、社会的に悪影響をもたらすと心配している。又、安楽死が法的に認められた場合、それが犯罪に利用される可能性があることを指摘している。しかしながら、安楽死を反対する人々は「命を落とすことは道徳的に反している」と考えているが、本当に死にたい患者を死なせてあげない方がもっと不道徳的ではないだろうか。

 安楽死を希望する患者のほとんどは、命の重さを思い知った上で薬による自殺を計っているのである。彼らは、治る見込みの無い病気に犯され、自分の死にたい時に自分なりに死ぬことを希望しているのである。また、病気があまりにも重いことによって家族に迷惑をかけていることを気にして申し訳なく思っているのである。つまり、経済的、感情的に家族の重荷になることを心配して安楽死を希望しているのである。

 確かに命は尊いものである。しかし、助かる見込みの無い病人を、本人の希望に従って苦痛の少ない方法で人為的に死なせる事のどこに問題があるのであろうか。人間は「生きる権利」と同時に「死を選択する権利」を持つべきである。この二つの権利を手にしていけば、安楽死は道徳にそった死に方だと言えるであろう。

(匿名希望)

 

 安楽死とは病気などで余命が短い人に対して積極的に自殺を助けることである。

 アンケート調査の結果によると安楽死について賛成が全体の七割をしめている。先日見たビデオの中での安楽死を望んでいる二人の女性は、苦しみながら毎日生きたくない、そして死期は自分で決めたいと主張している。二人の女性の家族も本人の希望に賛成している。アンケートによると肉親が安楽死を望んだら、という質問に全体の約七割が意志をかなえるために医師にかけあう、と答えている。逆に反対なので本人を説得すると答えた人は全体の約一割しかいない。

 今、世界で安楽死を認めているところはアメリカのオレゴン州とオランダだけだという。果たして、安楽死を世界中で認めるべきだろうか。これは人によって色々な意見があると思うが、私は認めるべきではないと思う。なぜなら、安楽死を認めることによって“命の尊さ”を忘れてしまう感じがするからだ。それと、いつでも死んでよい、という考えが増えると同時に、世界中で自殺する人が増えるだろう。人は死ぬまで生きる努力をすべきである。

 最初のアンケートを見てもわかるように、最近“死”について考える人が少ない。小学生を対象としたこのアンケートで身近な人の死を経験したことがある人が少ないというのも原因の一つだと考えられる。進んだ科学技術が若い人達から“死”を遠ざけているのだ。

 “死”というものは、生きている人は経験したことがないものであるが、それでも少しでも“死”について考えることが今の私達にとって必要なことであり、大事なことだと思う。そうすることによって“命の尊さ”を理解することができるからだ。

(2年 兵藤優理子)

宇宙開発の必要性

 

 現在、科学の発展によって開発されたものは多々ある。気象衛星はそのほんの一例であり、多くの人命が気象衛星による情報のおかげで救われた。つまり、科学技術の進歩によって地球や私達は守られていると言えるだろう。そして今日では、人類の宇宙進出も進められている。その中で最も壮大な計画が火星の地球化である。かつては水が液体として流れていた時代があったと推定されている火星にもう一度生命環境を地球が危機の時に備え、復活させるという計画である。しかしここで考えなければならないのは、莫大な費用を使ってまで「宇宙進出を進めるべきだろうか」ということだ。

 確かに私達人類は科学技術の進歩によって救われてきた。しかし地球には一刻も早く解決しなければならない問題がたくさんある。

 例えば、地球の温暖化だ。人類が空気を汚染していけばいくほど温暖化が進み、人類は地球に住めなくなるだろう。もしも、このような状況になってしまった場合、人類はまず最初に火星への非難を考えるだろう。しかし、そうなってしまう前に地球環境の改善を第一にするべきだと私は思う。気象衛星などに費用を使うのは良いが、火星を第二の地球にするためにはどれだけの費用がかかることだろう。人類は逃げ場を作るのではなく、今目の前にある問題に最善をつくす事が先決なのではないだろうか。

 火星への進出、それは人類の科学技術の素晴らしい進歩の証明になるかもしれないが、今取り組むべき事は地球環境の保全に役立つための宇宙進出であると私は考える。

(2年 敏鎌由佳)

 

 人類が始めて宇宙空間に衛星を打ち上げてから、既に四十年近くが経過した。しかし千九百五十年代から米ソ対立によって始まった宇宙進出も今や冷戦の終結と共に幕を閉じようとしている。シャトルを打ち上げるたびに無駄になる莫大なコスト、信頼性、安全性のなさ、また地球上での様々な問題がクラーク氏の言う宇宙開発の「暗黒時代」を生み出しているように思える。そんな現在私達は宇宙開発がどのような形で我々に利益をもたらすのかを考え、明確にしなければならない。

確かに宇宙を開発してゆく為には十分な時間が必要である。我々の世代が生きている限りでは、十分の一もの利益を見ることができないだろう。しかし今私達は気象衛星により天気予報や台風の進路予報、極地帯の氷河の変化による気温の長期予報などを得て、オゾンホールがどれだけ危険な状態にあるかを知ることができたのも、人類が宇宙から地球を観測したおかげである。

また軍事衛星のおかげで原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾といった恐ろしい核兵器がどこにあるかを探し当てることもできる。今、アメリカがイラクとの戦争を始める上でも、人工衛星がどれだけ大切な役割を果たしているのかが身に沁みてくる。戦争といった恐ろしい危機が迫っている今だからこそ一層に宇宙開発に力を入れ、世界平和を築くために努力する必要があるのではないだろうか。

 このように短期的に見ても宇宙開発はかかったコストの何百倍もの利益を社会にもたらしていることが分かる。最近起きたコロンビア号の事故が証明したようにまだ宇宙開発には安全保障がない。しかし、だからといってくじけていては、人類は進歩しなくなるのではないだろうか。失敗を積み重ねてこそ、初めて安全で信頼性のある宇宙開発を始めることができるのではないだろうか。

(匿名希望)

現代に生きる私達に欠けているもの

 

 最近の高大生などの会話やマナーを見ていると、かなり目に余るものがある。

 例えば、老人の目の前でシルバーシートに座って絶対ゆずらない、満員電車の中で大声で携帯電話で話す、年上の人に敬語を使わないなどといった行為である。このような事態が続くと日本語そのものがおかしくなり、後世に悪影響を与える可能性があるのではないか。最悪の場合、日本語そのものが消滅することも考えられる。

 言葉遣いで気になるのは、近頃の若者の造語が社会現象になり、世間が認識している点である。例えば、おはようを「おっはー」と言っている例である。年配の人に「おっはー」と言ってもまず、殆どの年配の人は理解できないと思う。話し方も「それでー、てゆーか、なんかー。」などという話し方で年上の人と話をしたら失礼ではないか。これは放っておけない問題である。

 マナーについては、注意されたからと言って逆上して注意した人に暴行を加えるといった非常識な行為が多いのも問題である。注意されたくなければマナーをよくし、注意されないようにすればいい。注意されても「すいません、ごめんなさい」の一言もいえない若者を放っておいていいのか。

 こういった言葉遣いやマナーの悪さが目立つ今の日本。このままでいると、更に治安が乱れ、後世に悪影響を与えるかもしれない。今から少しでも意識を持って改善するべきではないか。

(匿名希望)

 

 現代の日本の社会では、いたるところに物があふれ、世界中の情報も自分で簡単に手に入れられるようになってきた。生活に必要なものは何不自由なくそろえることができる現代。しかし、私たちにとってもっとも大切な事といえる人と人、または家族間のつながりは薄れてきてしまってはいないだろうか。

 現代の多くの日本の父親達は、家族を養うために毎日遅くまで働き、あまり家に帰ってこない。多くの子供達がそんな環境を当たり前の事として受けとめ、家族団欒のゆるやかな時間を知らないまま、どんどん絆がうすれていく。その結果、一番の理解者になるだろう人々をなくし、一人で悩んだあげくに自殺にまでに追い込まれてしまう人々が増えてきてしまっている。それに加え、人々が便利な世の中を夢見て作り出した情報化社会に自ら浸りきってしまい、人とのコミュニケーションがうまくできなくなってしまった人々、パソコンにばかり向かい、自ら人とのつながりを断ってしまう人々も増えてきてしまっているのも事実だ。

 現代に生きる私たちは、毎日の食事に困ることもなく、欲しい物はだいたい手に入るというとても恵まれた生活をしている。しかし今はもう利益を求めることにより物欲を満たす生活を送る時代ではない。人と人とのつながりがもたらす豊かな心こそ、今の私たちにとってとても大切なものだ。そこから得た豊かな経験や感情こそ、何にも変えられないその人の財産となるだろう。

(3年 深澤愛子)

パレスチナ問題

 

 イスラエルは、建国以来パレスチナと戦争状態が続いている。パレスチナ人がイスラエルに攻め込んだのをきっかけに、イスラエルがアラブの一部を占領し、なかなか返そうとしない。そのことにしびれを切らしたパレスチナ人は、イスラエルの国民を狙って自爆テロを起こすようになってしまった。もちろん私は、イスラエルがなかなか領土を返さないのに問題があると思う。しかしそれを武力によって解決しようと急いだパレスチナ軍は間違っている。平和な生活を取り戻すには、武力なしの解決を目指すべきではないだろうか。

 今、イスラエルでは、若者を中心に「兵役拒否運動」が広まりつつある。武力無しの解決を目指す人々が増えてきたのだ。武力に武力での報復を繰り返していては、人々は傷つき、憎しみだけが残されていく。話し合いがまとまらないのならば、それを取り締まることのできないリーダーを変えるなど、武力なしの解決を目指していかなければいけないのだ。その一つとして「兵役拒否運動」はいい方法だと思う。もちろん、軍刑務所に拘留され、将来は公務員などの職につけなくなるなどと、代償はとても大きい。それに、兵役に反感を持ちながらも、国の平和のためにと従った人々がいるのに、自分だけ逃れることは許されないと考える人々もいるだろう。しかし、国の平和のためには、もう武力は必要のないものであるどころか、邪魔なものなのだ。

 兵役拒否を呼びかける人の「どんなに大きな変革も、少数の反対から始まる」という言葉がとても心に残っている。無謀なことだと最初から諦めていては何も始まらない。一人一人の小さな勇気がとても大切なのだ。この変わりつつあるイスラエルの態度と平和への願いを理解し、パレスチナの人々が和解への手を差し延べてくれれば、お互いに平和への道を歩み始めることができるだろう。

(3年 深澤愛子)

パラリンピックのポスター

 平成九年十月七日、NAPOCは長野冬季パラリンピックのポスターを使うことをやめ、企業などへも配布しないことに決めた。ことによると「両手があっても、人間です。両手がなくても、人間です」と大きく書かれたポスターがどうも刺激的過ぎたようである。製作したコピーライターの仲畑貴志さんは、「人間とは何か」ということを理解してもらいたかったと語っている。ただ苦情が出たからといってこのポスターを廃棄する行動は仲畑さんの問題提起を無視し、障害者の大会を理解する上でとても残念に見える。

 「両手があっても、人間です。両手がなくても、人間です」以外にも、ポスターの下方には「不自由なぶんだけ、想像力が必要だ。不自由なぶんだけ、精神力が必要だ。不自由なぶんだけ、互いの力が必要だ。」といったポジティブで障害者が元気づけられそうなメッセージが記されていた。身体障害者への理解がまだ身近に深まっていない現代だからこそ、このようなメッセージが障害者への差別を防ぎ、お互いが分かち合える機会を作ることができたのではないかと思う。反発があって当たり前である。苦情電話をそして大会運営への影響を恐れていては、いつ、どのような形で健常者が身体障害者を、また身体障害者が健常者を、お互いを人間として認識しあえるようになるのだろうか。反発が一方的だからといって、ポスターを廃棄することは誤っているように思える。「差別的だ」、「文章が許せない」といった抗議があったのも、そもそも私達の社会がまだ障害者を人間として受け入れていないからである。

 そういった意味でも、今回の刺激的なポスターは、私達が障害者に対して持つ差別意識を認識し、そういった偏見をなくしていく上でも必要だったのではないだろうか。自分自身の誤りに気付くことによって始めて私達人間は平等に生きることができると私は考える。

(匿名希望)

私の考える理想の教育

日本では平成十四年になってから、ゆとり教育というものが取り込まれた。その目的は学校を週五日制にし、ゆとりと生きる力を与えようというものだ。私の考える理想的な教育システムは、この学校週五日制を最大限に生かしたゆとりのある教育である。

まず現代の日本の教育社会は、知識を詰め込むための教育社会であり、教師に言われたことを言われた通りにできた者が評価されている。物事を自分の力で考え抜くことより、結果の方が評価されるので、学習者は結果だけを覚えることに必死になってしまう。そしてその悪影響は社会にまで及んでいる。マニュアル通りにしか動けない人間、言われたことだけを正確にかつ猛スピードで処理する機械のような人間など、自分からは何も始められない指示まち人間が増加している。「なぜ言われた通りにできた者が最も評価される知識詰め込み式の教育が普及しているのだろうか?」答えは簡単である。それは多様化している個人の能力を早くしかも低コストでペーパーテストの点数で評価できるからである。

また、今の日本人に必要なのは知識ではなく人間としての知恵だということもわかって欲しい。例えば、海水から食塩を取るにはどうすればいいか。水分を蒸発させるというところまでは現代の日本人でもすぐに思いつくだろう。しかし実際は水分を蒸発させるだけでは小さなゴミや微生物などが残ってしまい、とても食塩としては活用できない。ここでは知識ではなく、どのようにしてゴミを取り除くか、人間としての知恵が要求されるのだ。

ゆとり教育を通し、子供たちの自主性が発揮しやすい環境をつくり、親はそれを温かい目で見守っていけるようになって欲しい。学校週五日制はただ目的もなく、遊ぶ時間を増やすためのものではなく、子供が自由な発想で自由に使える自分のための時間であるという考えを普及させ、押し付けるのではなく、子供自らが考え、学べる環境が私の理想である。

(2年 星野洋章)  

 

今年の夏、一週間半ほど日本の高校生活を経験した。高校三年のクラスに入り、皆と一緒に数学、国語、地理、物理、英語などの授業を受けた。クラスの皆は放課後塾へ通い、週末にも学校へ通い、大学受験の準備に励んでいた。一週間半と短い間だったが、日本の教育状況などいろいろな事を学ぶことができた。

私が体験入学した高校は日本の中では少ない授業の選択制を進んで取り入れており、クラスも一学年を五つの文系クラスと二つの理数系クラスに分けていた。個人の実力の差は必ず一つ一つのクラスに表れる。この差が大きいほどクラスの皆の負担が多くなる。アメリカでは当たり前のように授業選択が活用されている。個性を伸ばすためには自分の興味があるクラス、自分のレベルにあったクラスを選択できるようにするシステムが必要になる。

日本で高校三年生になると大学受験の事で頭がいっぱいになる。受験の事だけでいままでの生活も変化していくだろう。学校の部活動も勉強に専念するために引退する。つまり自由な時間が減っていく。アメリカには受験がないぶん高校生活は部活動などの自由な時間を保ちながら大学の準備をしている。私はこのシステムに大いに賛成する。やはり自分の本当にやりたいことを信じながら勉強するのは大切だと思う。

何のために教育は必要なのだろう。教育は将来本当にやりたい事を見つけるため、またはそのために個性を伸ばすファーストステージだと思う。従って私の考える理想的な教育は選択制で自分の個性を伸ばし、自由な時間が設けられている環境の中で学習できることである。

(2年 伊藤裕美)